バルト三国旅行記


杉原記念館


 昨日と同じく、今朝も6時30分に起床です。7時から朝食をとり、荷物をまとめたらテルをチェックアウトしてバスに乗り込みます。今日はヴィリニュスから北に進み、カウナスを観光してからラトビアの首都リガに向かいます。
 
ネリス川
ネリス川
車窓からの眺め
車窓からの眺め
 
 ヴィリニュスからカウナスまでは約100キロメートルの距離です。8時30分にホテルを出発したバスは10時に到着です。
 
 最初に見学するのは杉原記念館です。ここは1939年から1940年に日本領事館として利用された建物です。閉鎖後に人手に渡っていましたが、2000年に杉原記念館としてオープンしました。内部にはショップもあってガイドブックなどが購入できるそうです。
 
杉原記念館の門
杉原記念館
杉原記念館
← 杉原記念館の門
 
 杉原記念館に入ると、まずは15分ほどの杉原千畝さんの紹介ビデオを鑑賞します。
 
 1939年(昭和14年)8月28日、ここに日本人外交官の杉原千畝さんが領事代理として赴任してきます。直後の9月1日にドイツ軍がポーランドに侵攻し、9月3日にイギリスとフランスがドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が勃発します。ポーランドから多くのユダヤ人がナチスの迫害を逃れて隣国のリトアニアにやってきました。しかし、ヨーロッパに逃げ場の無いユダヤ人は、シベリアから日本を経由してアメリカなどの第三国に渡るしか生き延びる手段がありませんでした。
 
 1940年(昭和15年)7月18日の早朝、多くのユダヤ人が日本通過のヴィザを求めて領事館の前に集まってきました。杉原千畝さんは日本にヴィザ発給の許可を求める電報を何度も打ちましたが、当時の日本はドイツと同盟を結んでいたので、その度に拒否されました。
 
 7月30日、杉原さんは独断でヴィザを発給する決心をしました。彼は建物の前に集まったユダヤ人たちを招き入れ次々とヴィザを書き始めます。しかし、8月になるとドイツと不可侵条約を結んでいたソ連がリトアニアを占領して、8月25日までに日本領事館を閉鎖するよう通達してきました。
 
 ビデオを鑑賞した後は自由に内部を見学します。この建物は領事館が閉鎖された後に人手に渡っていたため当時のオリジナルではなく復元です。机の上にはヴィザのコピーが置かれています。イスには実際に座ることができて、机の上にあるペンや受話器を手に取って記念撮影することもできます。
 
執務室(復元)
執務室
発行されたヴィザ
発行されたヴィザ
 
 杉原さんは、当初の退去予定日だった8月25日を超えて8月28日までヴィザを書き続けました。領事館を退去した後は8月末まで滞在したホテルでヴィザを書き続け、9月1日にはベルリンに向かう列車に乗るためカウナス駅に向かいますが、列車が発車するまでの間もヴィザを書き続けました。最終的に彼が発給したヴィザは2000枚を超え、約6000人のユダヤ人が命を救われたそうです。
 
 
 簡単ではありますが、杉原千畝さんについて年表にまとめてみました。
 
杉原千畝さんの年表(1900〜1986)
杉原千畝さん 1900年
(明治33年)
1月1日、岐阜県で誕生
1918年
(大正7年)
早稲田大学に入学
11月、第一次世界大戦終結
1919年
(大正8年)
早稲田大学を中退して外務省留学生試験合格
1933年
(昭和8年)
1月、ドイツでアドルフ・ヒトラーが首相に就任してヒトラー内閣誕生
1936年
(昭和11年)
菊池幸子さんと結婚
1937年
(昭和12年)
フィンランドのヘルシンキ日本公使館に勤務
1939年
(昭和14年)
8月23日、ソ連とドイツが独ソ不可侵条約締結
8月28日、リトアニアのカウナスに日本領事館が開設され、領事代理に就任
9月、第二次世界大戦勃発(〜1945年)
1940年
(昭和15年)
7月、ユダヤ人難民に日本通過のヴィザを発行。
8月、ソ連がバルト三国を占領
8月、カウナスの日本領事館が閉鎖
9月、チェコスロバキアのプラハ日本領事館の総領事代理に就任
1941年
(昭和16年)
6月22日、独ソ開戦
12月、ルーマニアのブカレストの日本公使館勤務
12月8日、日本軍がハワイの真珠湾を奇襲
1945年
(昭和20年)
5月、ヒトラーが自殺しドイツが降伏
7月、ルーマニアのブカレスト郊外にあるゲンチャ捕虜収容所に連行される
8月15日、日本が降伏してポツダム宣言を受託
1947年
(昭和22年)
2月、杉原一家が日本に帰国
6月、外務省を退職
1985年
(昭和60年)
1月、イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞」を授与される
1986年
(昭和61年)
7月31日、鎌倉の自宅で死去(享年86歳)
 
 記念館の中には応接室も再現されていて、壁には家族や仕事仲間の写真が展示されています。杉原千畝さんと幸子さんの間には4人の子供がいました。
 
応接室
応接室
杉原千畝さん一家と職場の人たち
杉原千畝さん一家と職場の人たち
 
 終戦後、帰国した杉原さんは1947年(昭和22年)に外務省を退官します。その後は貿易会社などの職を転々とし、晩年には彼が発給したヴィザによって生き延びたユダヤ人たちと再会を果たします。1985年(昭和60年)にはイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞」を授与されました。