バルト三国の歴史


ラトビアの歴史(〜1795)


10世紀頃の民族分布
10世紀頃の民族分布
 ラトビア人の祖先もリトアニア人と同じくインド・ヨーロッパ語族に属し、紀元前2000年頃にベラルーシの方から移住してきました。
 
 彼らの移住によって、もともと現在のラトビアの辺りで暮らしていたフィン・ウゴル語系の先住民はさらに北方へと移住し、その人々がエストニア人の祖先となりました。
 
 リトアニアは1236年にミンダウガスによって統一されましたが、ラトビアは統一国家が誕生することはありませんでした。ラトビアはドイツ人によってキリスト教が広められ、町が建設されていきました。ロシアが支配した時代もドイツ人の貴族や商人が行政を担ったため、各地にドイツの文化が残っています。
 
 1201年、ドイツのブレーメン大司教の甥アルベルト司教が23隻の船に数百の傭兵たちを乗せてダウガヴァ川河口に姿を現します。彼らは、河口から13キロほど遡った場所に上陸してリガの町を建設しました。
 
リガを建設したアルベルト司教(ラトビア、リガの大聖堂)
リガを建設したアルベルト司教
 リガの町をキリスト教を布教するための拠点としたアルベルト司教は、1202年にドイツの傭兵たちを集めて帯剣騎士団を設立します。
 
 ドイツ人は現在のラトビアとエストニアの南部にあたる地域をリヴォニアと呼んでいて、帯剣騎士団は武力を用いてリヴォニアを征服していきます。彼らは現在のエストニアにあたる地域まで遠征し、1230年にレヴァル(現在のエストニアの首都タリン)も占領しましたが、1236年の「ザウレの戦い」でミンダウンガス率いるリトアニア軍に大敗して壊滅してしまいます。
 
 帯剣騎士団はドイツのプロイセンに本拠を置くチュートン騎士団(ドイツ騎士団)に吸収されます。チュートン騎士団のリヴォニア支部に位置づけられた帯剣騎士団は、引き続きリヴォニアの征服を進めます。この頃から、彼らはリヴォニア騎士団と呼ばれました。
 
バルト三国の勢力図(15世紀)
バルト三国の勢力図(15世紀)
 リヴォニア騎士団は、1242年の「氷上の戦い」でロシア軍に敗北して東方への進出を断念し、1260年の「ドゥルベの戦い」でリトアニア軍にも敗北して南方への進出も断念させられます。
 
 しかし、北方への領土拡大には成功し、デンマーク軍に占領されていたレヴァル(タリン)を再び占領するなど、1290年頃にリヴォニアの征服を成し遂げました。
 
 一方、ドイツを拠点とするチュートン騎士団は1410年の「ジャルギリスの戦い」でポーランド・リトアニア連合軍に大敗します。さらに、16世紀になると、ドイツでマルティン・ルターによる宗教改革が始まります。カトリックの布教を目的として設立されたチュートン騎士団ではプロテスタントに改宗する騎士が相次ぎ、騎士団は弱体化していき、1525年にポーランドに組み込まれます。彼らはポーランド王から爵位を与えられプロイセン公国を設立しました。
 
 この宗教改革の波は、1521年頃からラトビアにも押し寄せてリヴォニア騎士団の多くがプロテスタントに改宗します。リヴォニア騎士団も弱体化し、周辺列強の介入を招いて1558〜1583年にかけてリヴォニア戦争が勃発します。ロシア、スウェーデン、デンマーク、ポーランドなどがリヴォニアを巡って争う中で、リヴォニア騎士団も1561年にポーランドに組み込まれます。彼らも新たに爵位を与えられてクールラント公国(ラトビアの南方にあたる地域)を設立しました。
 
バルト三国の勢力図(17世紀半ば)
バルト三国の勢力図(17世紀半ば)
 1583年、リヴォニア戦争はリヴォニアをポーランド領、エストニアをスウェーデン領とすることで終結します。
 
 しかし、1617年からリヴォニアを巡ってポーランドとスウェーデンが戦争を始め、リガを含むダウガヴァ川から北の地域はスウェーデン領に組み込まれます。
 
 1700年、ロシア皇帝のピョートル1世がスウェーデンに攻撃をしかけ大北方戦争が始まります。ポーランドやデンマークも巻き込んだこの戦争で、エストニアやリヴォニアはロシアに占領されます。
 
 そして、リトアニアと同じく1772〜1795年の列強によるポーランド分割で、クールラント公国を含めたラトビア全土がロシア領に組み込まれました。
 
BC2000年頃 ラトビア人やリトアニア人の祖先にあたるバルト族が南方から移住してくる
1186年 ドイツ人のマインハルト司教がダウガヴァ川河口のイクシュキレにカトリックの教会を建設
1201年 ラトビアの首都リガの町並みアルベルト司教がドイツの騎士団を率いて侵攻し、リガを建設
(写真はラトビアの首都リガのリーヴ広場
1202年 ドイツの騎士たちによる帯剣騎士団が誕生
1236年 「ザウレの戦い」で帯剣騎士団がミンダウガス率いるリトアニア軍に大敗
1237年 帯剣騎士団がチュートン騎士団(ドイツ騎士団)に吸収され、リヴォニア騎士団を名乗る
1260年 「ドゥルベの戦い」でリヴォニア騎士団がリトアニア人に大敗
1282年 リガがハンザ同盟に加盟
1290年 リヴォニア騎士団がリヴォニアの大部分を征服
1347年 リヴォニア騎士団の居城となったラトビアの首都リガに建つリガ城リヴォニア騎士団がエストニアまで領土を拡大
(写真はリヴォニア騎士団の居城となったラトビアの首都リガに建つリガ城
1410年 「ジャルギリスの戦い(ポーランドではグルンヴァルドの戦い)」で、チュートン騎士団(ドイツ騎士団)がポーランド・リトアニア連合軍に大敗
1525年 チュートン騎士団(ドイツ騎士団)がポーランド王に臣従してプロイセン公国が成立
1558年 ロシアがリヴォニアに侵攻してリヴォニア戦争勃発(〜1583年)
1561年 リヴォニア騎士団がポーランドに臣従し、クールラント公国が成立
1569年 ルブリンの合同(ポーランドとリトアニアの連合国家が成立)
1621年 ラトビアの首都リガの大聖堂に飾られているスウェーデン王グスタフ2世のステンドグラススウェーデン軍がリガを占領
(写真はラトビアの首都リガの大聖堂に飾られているスウェーデン王グスタフ2世のステンドグラス)
1629年 ポーランドとスウェーデンが「アルトマルク条約」を締結し、スウェーデンがダウガヴァ川より北部の領土を獲得
1700年 大北方戦争(〜1721年)
1710年 ロシアがリヴォニアを占領
1736年 バウスカの郊外に建つルンダーレ宮殿バウスカ郊外にルンダーレ宮殿の建設が始まる
(写真はバウスカの郊外に建つルンダーレ宮殿
1772年 ロシア、オーストリア、プロイセンによる第一次ポーランド分割
1793年 ロシア、プロイセンによる第二次ポーランド分割
1795年 ロシア、オーストリア、プロイセンによる第三次ポーランド分割。ポーランド・リトアニア連合国家が消滅。現在のラトビアにあたる領土はロシアとプロイセンに分割される