オランダ旅行記(アムステルダム)
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ゴッホ美術館
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延泊も3日目になりました。今日も空港は閉鎖されています。

ゴッホ美術館
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今日はゴッホ美術館に行ってみようと思います。
この美術館にはゴッホ(1853〜1890年)の作品が200点余り、年代順に展示されています。
ゴッホは1853年の3月30日にオランダ南部の小さな村で生まれました。ゴッホには1年前の同じ日に生まれながら間もなく亡くなった兄がいました。両親はゴッホに亡くなった兄と同じヴィンセントという名前をつけていました。ゴッホは自分の名前が刻まれたお墓を見て、ショックを受けたと言われています。
ゴッホは26歳までは教師、伝道師、画商などの職業を転々としましたが上手くいきませんでした。そして、27歳のときに画家になることを決意します。
ゴッホが画家として活躍した10年間は大きく5つの時代に分けられます。最初は、故郷を中心に活動したオランダ時代(1880〜1885年)です。

馬鈴薯を食べる人たち
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この時期の大作は、1885年に32歳のゴッホが描いた「馬鈴薯を食べる人たち」です。
「馬鈴薯」は「じゃがいも」のことで、当時の農民たちの生活を描いています。
続いては、パリ時代(1886〜1888年)です。1885年末に父親を亡くしたゴッホはベルギーのアントワープに移住します。翌1886年には、弟のテオが暮らしていたパリのモンマルトルに拠点を移します。ゴッホはここでゴーギャンやロートレックと知り合います。

パリのクリシー通り
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「パリのクリシー通り」は、ゴッホが1886〜1887年にかけて描いた作品です。
ゴッホが暮らしていたモンマルトルのクリシー通りの景色を描いています。
ゴッホはこの時期に27点の自画像を描いています。彼はモデルを雇うお金がなかったので自画像を多く描いたそうです。同じ時期に描かれた作品と思えないほどタッチや色使いが異なっていて、彼がいろいろな技法を試していたことが分かります。

自画像 |
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自画像
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さらに、ゴッホはパリで暮らしていた1887年に浮世絵を模写した「花魁」という作品を描いています。

花魁(おいらん)
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1867年のパリ万博に日本が初めて参加して以来、ヨーロッパでは日本ブームが興っていました。ゴッホは、パリに来る前に暮らしていたアントワープで浮世絵を目にして強い憧れを抱きました。
ゴッホは画商をしていた弟のテオと一緒に浮世絵を収集して、それらを油絵で模写しました。この作品は、パリで刊行された雑誌の表紙を飾っていた渓斎英泉(けいさいえいせん)の作品を模写したものです。
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