フランス旅行記(ルーヴル美術館)


ルーヴル美術館(フランス絵画)


 有名な「ナポレオン1世の戴冠式」は、ジャック・ルイ・ダヴィッド(1748〜1825年)の傑作です。ルーヴル美術館で2番目に大きなこの絵画は、1804年12月2日にノートルダム大聖堂で行われたナポレオン1世の戴冠式の様子を描いています。
 
ルーヴル美術館に飾られている「ナポレオン1世の戴冠式(ジャック・ルイ・ダヴィッド)」
ナポレオン1世の戴冠式(ダヴィッド)
 
 
 ナポレオンを崇拝し、宮廷画家として彼を讃える作品を数多く描いたダヴィッドは、ナポレオンが退位に追い込まれると、フランスで生活することができなくなり、ベルギーに亡命しました。
 
 ダヴィッドには多くの弟子がいました。その中の1人アントワーヌ・ジャン・グロ(1771〜1835年)が描いたのが「アイラウの戦場のナポレオン」です。戦闘が終わって戦場を視察するナポレオンを描いています。
 
ルーヴル美術館に飾られている「アイラウの戦場のナポレオン(アントワーヌ・ジャン・グロ)」
アイラウの戦場のナポレオン(グロ)
 1808年2月8日、フランス皇帝ナポレオンの率いる6万の軍勢はポーランドのアイラウで7万余のロシア軍と激突します。
 
 12時間に及ぶこの戦いは、両軍あわせて3万人を越える戦死者を出しました。
 
 新古典主義の巨匠ドミニク・アングル(1780〜1867年)もダヴィッドの弟子の1人です。
 
ルーヴル美術館に飾られている「グランド・オダリスク(ドミニク・アングル)」
グランド・オダリスク(アングル)
 1814年に描かれた「グランド・オダリスク」は、トルコの後宮に仕えた女性を描いた作品です。
 
 アングルはナポレオンの援助を受けてイタリアに留学しました。この作品は留学時代に描かれたものです。
 
 しかし、発表当時は多くの人々から「胴体が長すぎる」と非難されました。さらに翌年、ナポレオンが退位に追い込まれたために、援助を受けられなくなって苦しい生活を余儀なくされました。
 
 1824年、フランスに帰国したアングルは、新古典主義の旗頭として活躍します。1833年には国立美術学校の校長に就任し、翌1834年には美術アカデミーの会長に選ばれました。
 

 テオドール・ジェリコー(1791〜1824年)が、1819年に発表した「メデューズ号の筏」は、サロンで大騒ぎになりました。
 
ルーヴル美術館に飾られている「メデューズ号の筏(テオドール・ジェリコー)」
メデューズ号の筏(ジェリコー)
 1816年6月、アフリカのセネガルに向かっていたメデューズ号が難破しました。救命ボートに乗れなかった150人の乗客は筏を作って漂流しますが、12日後に救出されたとき、生存者はわずか15人でした。
 
 ジェリコーはこの悲惨な事件を描くために生存者に話を聞いたり、病院や死体置き場で死体をスケッチしたそうです。
 
 ジェリコーとともに同じ師のもとで修行していたウジェーヌ・ドラクロワ(1798〜1863年)が1830年に発表したのが「民衆を導く自由の女神」です。
 
ルーヴル美術館に飾られている「民衆を導く自由の女神(ウジェーヌ・ドラクロワ)」
民衆を導く自由の女神(ドラクロワ)
 1830年7月、国王シャルル10世の政策に反発したパリ市民が蜂起します。
 
 シャルル10世は退位してルイ・フィリップが即位、7月王政がはじまります。この作品はその革命の様子を描いたものです。