ドイツ旅行記(ハイデルベルク)


ハイデルベルク城


 今朝は7時30分にホテルをチェックアウトします。バスに乗り込み、まずはハイデルベルクに向かいます。アウトバーン(ドイツの高速道路)を走り、約1時間でハイデルベルクに到着です。
 
アウトバーン
アウトバーン
ハイデルベルク
ハイデルベルク
 
 ネッカー川のほとりにあるハイデルベルクは、古城と大学で有名な町です。神聖ローマ帝国の時代、この町はプファルツ選帝侯が統治していました。
 
 神聖ローマ帝国では、選帝侯と呼ばれる諸侯が選挙によってドイツ王を選出していました。そして、選出されたドイツ王はイタリアに赴き、ローマ法王から戴冠されて神聖ローマ帝国の皇帝を名乗れるという仕組みでした。
 
 駐車場でバスをおりて、まずは丘の上に建つハイデルベルク城に向かいます。歩いて5分ほどでエリザベート門に到着です。エリザベート門は、1610年にプファルツ選帝侯となったフリードリヒ5世(1596〜1632年)が妃エリザベス・スチュアートの誕生日祝いに造らせました。エリザベスを驚かせるために一夜で造らせたと言われていて、装飾があるのは表だけです。
 
エリザベート門(表)
エリザベート門(裏)
エリザベート門(裏)
 
← エリザベート門(表)とハイデルベルク城
 
 16世紀以降、ヨーロッパでは宗教改革の嵐が吹き荒れ、カトリック(旧教徒)とプロテスタント(新教徒)が激しく対立しました。1555年、「アウグスブルクの宗教和議」によってカトリックとプロテスタントは同等の権利を持つことが決められます。しかし、この宗教和議では個人が宗教を選ぶことはできず、都市単位で領主が宗教を決めました。ハイデルベルクはプロテスタントに組することになります。
 
 
 1618年、カトリックとプロテスタントの対立が頂点に達してドイツ三十年戦争が勃発します。翌1619年、フリードリヒ5世がプロテスタント諸侯によってボヘミア王に選出されます。
 
 これに対して、カトリックを擁護するハプスブルク家の皇帝フェルディナント2世(在位1619〜1637年)はボヘミアに軍隊を派遣します。皇帝軍がプラハ郊外の「白山の戦い」でプロテスタント派の軍隊を打ち破ると、フリードリヒ5世はオランダに亡命します。彼のボヘミア王位は、一冬だけだったのでボヘミア冬王と呼ばれました。
 
ハイデルベルク城の塔門
ハイデルベルク城の塔門
 この三十年戦争で、ハイデルベルク城はカトリック派のバイエルン軍やスペイン軍、プロテスタント派のスウェーデン軍による攻防の舞台となりダメージを受けました。
 
 1648年に三十年戦争が終結すると、ウェストファリア条約によってフリードリヒ5世の子、カール・ルートヴィヒがハイデルベルクに帰還します。彼はハイデルベルクの復興に努める一方で、娘をフランスの太陽王ルイ14世の弟に嫁がせてフランスとの関係を強化しました。
 
 しかし、この婚姻関係は仇となり、1685年にカール・ルートヴィヒの子、カール2世が後継者を残さないまま世を去ると、太陽王ルイ14世がプファルツ選帝侯の地位と領土を要求してプファルツ継承戦争(1688〜1699年)が勃発します。この戦争で、ハイデルベルク城は砲撃や火薬によって破壊されました。
 
ハイデルベルク城
ハイデルベルク城
火薬塔 →
火薬塔
 
 
 プファルツ継承戦争でハイデルベルクの町も大部分が破壊されました。プファルツ選帝侯の宮廷はマンハイムに移り、町は放置されましたが、19世紀になってようやく復興されました。城のテラスからは復興された旧市街の町並みが一望できます。
 
ハイデルベルク城から眺めた旧市街