神聖ローマ帝国の歴史


フランク王国の時代(481〜911)


 古代ローマ帝国がヨーロッパの大部分を支配していた時代、ローマ人は現在のドイツを含む一帯をゲルマニアと呼び、そこに住む民族をゲルマン民族と呼んでいました。古代ローマ帝国のアウグストゥス帝はローマ軍団をゲルマニアに侵攻させましたが、ゲルマン民族はトイトブルクの森でローマ軍を撃退しました。
 
カール大帝時代のフランク王国
カール大帝時代のフランク王国
カール大帝の戴冠(ヴァチカン市国のヴァチカン博物館)
カール大帝の戴冠
 
 その後、ゲルマン民族の大移動によって西ローマ帝国は滅びます。ローマ帝国の旧領を巡って多くの民族が争い、やがてゲルマン系のフランク族が台頭し、フランク王国が誕生します。
 
 フランク王国は、カロリング朝のカール大帝(742〜814年)の時代に全盛期をむかえます。西暦800年12月25日、カール大帝はローマで教皇レオ3世の手により西ローマ帝国の皇帝に戴冠されました。
 
ヴェルダン条約後のフランク王国
ヴェルダン条約後のフランク王国
メルセン条約後のフランク王国
メルセン条約後のフランク王国
 
 843年、カール大帝の孫にあたる3人の兄弟、ロタール1世、ルートヴィヒ2世、シャルル2世がヴェルダン条約を結んでフランク王国を三分割します。
 
 さらに、855年にロタール1世が死去すると、ルートヴィヒ2世、シャルル2世、ロタール1世の息子ロドヴィコ2世はメルセン条約を結んで新たな国境を設定します。この国境が現在のドイツ、フランス、イタリアの母体になりました。
 
BC55年 ドイツを流れるライン川カエサル率いるローマ軍がライン川を越えてゲルマニアに侵攻
(写真はドイツを流れるライン川
BC9年 ドルスス率いるローマ軍がゲルマニアに侵攻し、エルベ川に到達
9年 「トイトブルクの森の戦い」でゲルマン軍がローマ軍に勝利し、ローマ帝国との国境をエルベ川からライン川に押し戻す
180年 マルクス・アウレリウス帝がゲルマン民族との戦いの前線基地ウィンドボナ(現在のウィーン)で死去
476年 西ローマ帝国が滅亡
481年 クローヴィスの生涯を描いたタペストリーが飾られているベルギー、ブリュッセルの市庁舎にある「マクシミリアンの間」クローヴィスがフランク王国の国王に即位(メロヴィング朝)
(写真はクローヴィスの生涯を描いたタペストリーが飾られているベルギー、ブリュッセルの市庁舎にある「マクシミリアンの間」
732年 「トゥール・ポワティエの戦い」でフランク王国がイベリア半島から侵攻してきたイスラム軍を撃退
751年 ピピン3世がフランク王国の国王に即位(カロリング朝)
800年 カール大帝が戴冠式を行ったヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂フランク王国のカール大帝がローマ教皇から帝冠を授かり、西ローマ帝国復活
(写真はカール大帝の戴冠式が行われたヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂
814年 カール大帝がアーヘンで死去
843年 ヴェルダン条約により、フランク王国が三分割される
870年 メルセン条約により、東フランク王国、西フランク王国、イタリアに三分割される(ドイツ、フランス、イタリアの原型)
911年 ルートヴィヒ幼童王が死去し東フランク王国(ドイツ王国)のカロリング朝が断絶。フランケン公コンラート1世が東フランク王国の国王に選出される