神聖ローマ帝国の歴史


カール5世と宗教改革(1439〜1564)


 ヤン・フスの宗教改革から100年余りが過ぎた1518年、今度はドイツでマルティン・ルターによる宗教改革が始まります。
 
 当時、ローマではサン・ピエトロ大聖堂の建設が進められていました。建設には莫大な資金が必要なため、ローマ教会は贖宥状(免罪符)の販売を始めました。これは罪を犯してもお金を払えば許されるという考え方で、これに疑問を持ったヴィッテンベルク大学の教授マルティン・ルターが「95ヶ条の論題」を発表してローマ教会を批判しました。
 
カール5世(スペイン、プラド美術館)
カール5世
マルティン・ルター(ドイツ、シュテーデル美術館)
マルティン・ルター
 
 
 当時の神聖ローマ帝国の皇帝はハプスブルク家の全盛期を築いたカール5世でした。彼の治世にハプスブルク家はドイツだけでなく、スペイン、ネーデルラント、オーストリア、ボヘミア、ハンガリー、南イタリアまで領土を拡張していました。
 
カール5世時代のハプスブルク家の勢力地図
カール5世時代のハプスブルク家の勢力地図
 
 1521年に開催されたヴォルムスの帝国議会で、カール5世はルターを異端者として帝国追放の刑に処します。しかし、ハプスブルク家の勢力を警戒したドイツ諸侯はルター支持にまわってハプスブルク家を牽制します。
 
 彼らは、1529年のシュパイアー帝国議会で異端を認めないカール5世に激しく抗議しました。この「抗議」のことを「プロテスト」と呼び、以後、ルターを支持する人々は従来の旧教(カトリック)に対して新教(プロテスタント)と呼ばれました。
 
 そして、1555年の「アウクスブルクの宗教和議」で旧教と新教は対等に扱われることが決められました。
 
1440年 フリードリヒ3世がドイツ王に即位
1452年 フリードリヒ3世がローマ教皇から帝冠を授かり、神聖ローマ皇帝に即位
1453年 トルコのイスタンブールの町並みオスマン帝国がコンスタンティノープルを攻略し、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)が滅亡。
(写真はトルコのイスタンブール(コンスタンティノープル)の町並み)
1477年 フリードリヒ3世の子、マクシミリアン1世がブルゴーニュ公国のマリー公女と結婚
1493年 オーストリアのウィーン美術史美術館に展示されているマクシミリアン1世の肖像画フリードリヒ3世が死去。マクシミリアン1世が神聖ローマ帝国の皇帝に即位
(写真はオーストリアのウィーン美術史博物館に展示されているマクシミリアン1世の肖像画)
1516年 マクシミリアン1世の孫、カール5世がスペイン王に即位(スペイン王カルロス1世)
1517年 ドイツでマルティン・ルターによる宗教改革がはじまる
1519年 マクシミリアン1世が死去。カール5世が神聖ローマ帝国の皇帝に即位
1525年 ハプスブルク家の軍隊がイタリアのパヴィアでフランス軍に勝利
1529年 オスマン・トルコ帝国による第一次ウィーン包囲
1547年 カール5世、「ミュールベルクの戦い」でプロテスタントの軍隊に勝利
1555年 アウグスブルクの宗教和議でプロテスタントが認められる
1556年 オーストリア、ウィーンの美術史美術館に展示されているフェルディナント1世の肖像画カール5世が皇帝を退位し、弟のフェルディナント1世が神聖ローマ帝国の皇帝に即位。
(写真はウィーンの王宮に展示されているフェルディナント1世の肖像画)
1564年 フェルディナント1世が死去。マクシミリアン2世が神聖ローマ帝国の皇帝に即位