スロバキア旅行記
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ブラチスラバ城
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ブダペストのホテルに一泊して2日目の朝がやってきました。今日はスロバキアの首都ブラチスラバを観光します。8時にホテルをチェックアウトしたらバスに乗って出発します。
ブダペストからブラチスラバまで約215キロの距離です。ブダペストを出発して約2時間45分が経過した頃に丘の上に建つブラチスラバ城が見えてきました。

車窓からの景色 |
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ブラチスラバ城の遠景 |
バスはブラチスラバ市内に入って、まずは先ほど丘の上に見えたブラチスラバ城に向かいます。

グラサルコヴィッチ宮殿 |
その途中、車窓からグラサルコヴィッチ宮殿が見えました。現在は大統領公邸として利用されています。
この宮殿は、オーストリアのマリア・テレジア女帝に仕えたアントン・グラサルコヴィッチ伯爵によって1760年頃に建てられました。
ブラチスラバ城の入口にあたるウィーン門の前でバスをおります。ウィーン門の向かい側には国会議事堂があります。

ウィーン門 |
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国会議事堂
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ウィーン門をくぐって石畳の坂道をのぼっていくとブラチスラバ城が見えてきます。
私たちが観光しているスロバキア共和国は1993年に誕生した比較的新しい国です。スロバキアは「スラブ人の国」を意味しています。
国としての歴史は新しいですが、首都のブラチスラバは長い歴史を持っています。紀元前1世紀頃には城が建っている丘にケルト人の集落があったそうです。その後、この地域にはローマ帝国の支配を経てゲルマン人が入植します。
7世紀になるとスラブ人が定住し、モラヴィア王国を建国します。城の前には最盛期の王国を統治したスヴァトブルク1世(在位871〜894年)の騎馬像が置かれています。

坂道を上ってブラチスラバ城へ
モラヴィア公スヴァトブルク1世 → |
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このモラヴィア王国はマジャール人(ハンガリー人)に攻められて10世紀頃に滅亡します。かつてのモラヴィア王国の西部はボヘミア王国に吸収されて現在のチェコ東部のモラヴィア地方に名残を留めています。一方、王国の東部はハンガリー王国に組み込まれました。スラブ人がブラチスラバと呼んだこの町もハンガリーの支配下に入り、ハンガリー語でポジョニと呼ばれました。
15世紀にハンガリー王と神聖ローマ帝国の皇帝を兼ねたルクセンブルク家のジギスムントは、この丘にゴシック様式の城を建設します。
1541年にハンガリーの首都ブダペストがトルコ軍に占領されると、ハンガリー貴族はブラチスラバに避難し、ここが新たなハンガリーの首都となります。17世紀には、トルコ軍の攻撃に備えて城の四隅に塔が設けられました。

ブラチスラバ城 |
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ブラチスラバ城の中庭
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1699年、ハプスブルク家はトルコとカルロヴィッツ条約を結んでハンガリー全土を獲得します。ハプスブルク家が統治した時代のブラチスラバはドイツ風にプレスブルクと呼ばれました。
マリア・テレジア女帝の時代にブラチスラバは繁栄し、ブラチスラバ城はバロック様式で大改築されました。
しかし、この城は1811年の火災で焼失してしまいます。その後、城は140年に渡って放置された末に解体計画が持ち上がります。しかし、長い議論の末に再建の方向で話がまとまり、1953年から工事が始まります。
この城の工事が完了したのは私たちがブラチスラバを訪問した2015年です。私たちは運よく再建工事が完了したばかりの城を見学できました。再建された城は国立歴史博物館になっています。

ドナウ川 |
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UFOと呼ばれる展望タワー
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ブラチスラバ城が建つ丘からは、ドナウ川が見えます。ドナウ川に架かる橋にはUFOと呼ばれる展望タワーが建っています。高さは95メートルあって内部はレストランになっています。ブラチスラバで一番高い建物で、ここからブラチスラバ市内を見渡すことができるそうです。
ドナウ川の向こうはオーストリアです。オーストリアの首都ウィーンとの距離はわずか60キロ程ということです。スロバキアは、ウィーンを中心とするオーストリア・ハンガリー二重帝国の一翼を担いましたが、1918年に第一次世界大戦で敗北すると、帝国は解体されてしまいます。スロバキアは、オーストリアやハンガリーから分離して同じスラブ人の国家であるチェコと共にチェコスロバキア連邦共和国を建国します。
第二次世界大戦ではナチスドイツの支配下に入り、戦後はソ連の共産主義に組み込まれます。1989のビロード革命で民主化を果たし、1993年1月1日に連邦制を解消してチェコ共和国とスロバキア共和国に分裂しました。二国間に武力衝突などはなく話し合いで解決したので、「ビロード離婚」と呼ばれました。
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