チェコ旅行記
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ミュシャ美術館とヴァーツラフ広場
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市民会館の前には共和国広場があります。この広場から東方向に歩いて15分くらいのところにプラハ市博物館が建っています。ここにはプラハ市の歴史に関する絵画や資料が展示されているそうです。
ところが、現地についてみると開館している気配がありません。ドアが空いてるので内部に入ってみると、工事業者の方がいて改装工事を行っているとのことでした。残念ながら博物館の見学はあきらめて次の観光地に向かいます。

共和国広場
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プラハ市博物館
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再び市民会館の前まで戻り、そこから南西の方向に行くとミュシャ美術館があります。アルフォンス・ミュシャ(1860〜1939年)は、チェコを代表するアールヌーヴォーの画家です。「ミュシャ」はフランス語風の呼び名で、チェコ語では「ムハ」と発音するようです。

ミュシャ美術館 |
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ミュシャ美術館の入口
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ここは小さな美術館ですが、パリ時代、チェコ時代の作品やアトリエの様子をみることができます。ここのショップは充実していてミュシャの絵ハガキやグッズが数多く売られています。

ジスモンダ
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パリ時代のミュシャを代表する作品は縦216cm、横74.2cmという大きなポスター「ジスモンダ」です。
1894年のクリスマス、34歳のミュシャは友人に頼まれて1人で印刷所に残って仕事をしていました。
このとき、フランスの大女優サラ・ベルナールから急ぎのポスター制作の依頼が舞い込みます。新年用の舞台ポスターのため期限は1週間しかありませんでした。ところが、印刷所のデザイナーは全員クリスマス休暇で不在だったため、やむを得ずミュシャが引き受けます。
1895年1月1日、パリ中に貼り出されたミュシャのポスターを目にしたパリ市民は驚愕します。当時、人々は2メートルを超える大きなポスターを見たことがありませんでした。そこに描かれた等身大のサラや淡いパステル調の色彩はたちまち市民を魅了し、あっという間に剥がされたり切り取られたりしてパリ中から姿を消しました。
サラ・ベルナールもこのポスターに魅了され、ミュシャとポスター制作に関する6年間の専属契約を交わします。こうしてミュシャは華々しいデビューを飾りました。
1910年、50歳になったミュシャは祖国のチェコに戻ります。翌1911年には「ヒヤシンス姫」を製作します。これは、バレエ「ヒヤシンス姫」の宣伝ポスターでした。姫はスラブの民族衣装をまとい、ヒヤシンスをモチーフにした髪飾りやアクセサリーを身に着けています。パリ時代と比べると、チェコ時代の作品は色彩が鮮やかになっているのが特徴だそうです。

ヒヤシンス姫 |
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「スラブ叙事詩」展ポスター |
さらに、同年の1911年に20点の連作「スラブ叙事詩」の製作に取り掛かります。そして、1918年のチェコスロバキア建国から10周年を記念する1928年に「スラブ叙事詩」の展覧会が開催されました。
1928年に制作された「スラブ叙事詩」展のポスターに描かれている女性のモデルはミュシャの娘ヤロスラヴァです。背後に描かれている男性はスヴァントヴィートという異教の神です。正面と左右の三面に顔を持っていて、それぞれ「過去」「現在」「未来」をあらわしています。
ミュシャ美術館のすぐ近くにヴァーツラフ広場があります。ミュシャ美術館やヴァーツラフ広場がある、火薬塔から南に広がるエリアは新市街と呼ばれています。新市街といっても建設されたのは14世紀です。
カレル1世の時代、プラハは神聖ローマ帝国の首都になり「黄金のプラハ」と呼ばれる繁栄の時代を迎えます。プラハには多くの人々が移住してきたため、カレル1世は都市計画の一環として旧市街を囲むように新市街を建設します。このヴァーツラフ広場もカレル1世の時代に馬の取引をする市場として建設されました。長さ750メートル、幅60メートルの大きな広場です。

ヴァーツラフ広場
聖ヴァーツラフ像と国立博物館 →
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ヴァーツラフ広場の終着点には聖ヴァーツラフの騎馬像が立っています。その背後には国立博物館があります。残念ながら改装工事中のため入館できません。1998年にも一度プラハを訪問したことがありますが、その時は入場料が無料の日でした。鉱物や化石が大量に展示されていたのを見た記憶があります。
ヴァーツラフ像の前には「プラハの春」の記念碑があります。1918年の第一次世界大戦後、チェコは隣国スロバキアと共にハプスブルク家のオーストリア・ハンガリー二重帝国から独立してチェコスロバキア共和国を建国します。しかし、1945年の第二次世界大戦後はハンガリーと同じくソ連の共産主義に取り込まれてしまいます。
1968年になると、人々は民主化を求めて「プラハの春」と呼ばれる改革運動を起こします。これに対してソ連は軍隊を派遣します。ヴァーツラフ広場にソ連の戦車が並び、プラハ市民は聖ヴァーツラフ像の前に座り込んで対峙しました。

「プラハの春」の記念碑
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ヴァーツラフ広場
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1969年1月、ヤン・パラフという21歳のプラハ大学の学生が、抗議のために焼身自殺します。1ヶ月後には18歳のヤン・ザイクが焼身自殺します。この記念碑は二人の慰霊碑です。この「プラハの春」運動は間もなく鎮圧されてしまいました。
その後、1980年代になると、ソ連でもペレストロイカと呼ばれる民主主義運動が起こります。1989年11月にベルリンの壁が崩壊しますが、同じ11月にプラハでも再びヴァーツラフ広場に民衆が集まります。
そして、12月28日にヴァーツラフ・ハベルが大統領に就任し、チェコスロバキアは民主化を果たしました。この革命は、暴力を使うことなく無血で成功したため「ビロード革命」と呼ばれました。
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