チェコ旅行記


聖ヴィート大聖堂


 ミュシャのステンドグラスに続いて鑑賞するのは、聖ヤン・ネポムツキー殉教の場面を描いた絵画です。ネポムツキーはヴァーツラフ4世(在位1378〜1419年)の宮廷司祭を勤めた聖職者です。ヴァーツラフ4世は先ほど登場したカレル1世の息子です。
 
 この絵画はネポムツキーの殉教に関する3つの場面が描かれています。絵画を縦に三分割して、左側の部分ではネポムツキーが王妃の懺悔を聴いています。
 
聖ヤン・ネポムツキー殉教の場面
聖ヤン・ネポムツキー殉教の場面
 右側の部分では、ヴァーツラフ4世がネポムツキーに王妃の懺悔の内容を明かすように命じています。しかし、ネポムツキーはこれを拒否したため、拷問を受けて殺害されます。
 
 中央部分では、ネポムツキーの遺体が橋の上からヴルタヴァ川に投げ込まれています。
 
 絵画の向かい側には告解席があります。ネポムツキーの時代より後に作られたもののようです。その少し先には聖ヴィート像があります。聖ヴィートは3世紀にローマ帝国のディオクレティアヌス帝による大迫害で殉教した人物とされています。
 
告解席
告解席
聖ヴィート像 →
聖ヴィート像
 
 その先には聖ヤン・ネポムツキーの墓碑があります。1736年にフィッシャー・フォン・エルラッハ(1658〜1705年)によって製作されたもので、2トンの銀が使われています。
 
聖ネポムツキーの墓碑
聖ネポムツキーの墓碑 ↑→
聖ネポムツキーの墓碑
 
 ネポムツキーは、拷問の末に舌を切り取られて殺害されたと言われています。天使像は左手に彼の舌を持ち、それを右手で指差しています。
 
 
 礼拝堂には、チェコを統治したプシェミスル家のオタカル1世(在位1198〜1230年)と孫のオタカル2世(在位1253〜1278年)が埋葬されています。オタカル1世は1192年にボヘミア公に即位します。1198年にボヘミア公国はボヘミア王国に昇格してオタカル1世はボヘミア王に即位します。1212年には、神聖ローマ帝国の皇帝フリードリヒ2世が勅書を発布してボヘミア王国を承認しました。
 
ボヘミア王オタカル1世の棺
ボヘミア王オタカル1世の棺
ボヘミア王オタカル2世の棺
ボヘミア王オタカル2世の棺
 
 オタカル2世は、オーストリアからスロベニアに至る領土を征服したボヘミア王です。1250年に皇帝フリードリヒ2世が亡くなると、神聖ローマ帝国は皇帝不在の大空位時代を迎えます。神聖ローマ帝国では、有力貴族が選挙によって皇帝を選んでいました。オタカル2世は皇帝への野心を持っていましたが、彼の実力を警戒した貴族たちは、スイスの小貴族ハプスブルク家のルドルフ1世(在位1273〜1291年)を新しい皇帝に選びます。
 
 オタカル2世はルドルフ1世の即位を認めず、両家は1278年にウィーン郊外のマルヒフェルトで決戦します。しかし、ボヘミア軍は敗北してオタカル2世は戦死しました。オーストリアとスロベニアはハプスブルク家の所領となり、ボヘミア王国はオタカル2世の息子ヴァーツラフ2世(在位1278〜1305年)が継承しました。
 
 続いては、聖ヴァーツラフ礼拝堂です。ここは大聖堂で一番重要な礼拝堂とされています。立ち入りが禁止されているので入口から少し内部を覗くだけです。
 
聖ヴァーツラフ礼拝堂
聖ヴァーツラフ礼拝堂
聖ヴィート大聖堂を飾るステンドグラス
大聖堂を飾るステンドグラス
 
 この聖ヴァーツラフ礼拝堂は、カレル1世による大改築の際にペトル・パルレーシュによって設けられました。