チェコ旅行記


チェスキー・クルムロフ城


 今日はプラハを出てチェスキー・クルムロフという町に向かいます。チェスキー・クルムロフはチェコの南方、オーストリアとの国境近くにある町です。
 
 8時にプラハのホテルを出発して、11時にチェスキー・クルムロフに到着しました。駐車場でバスをおりたところに、チェスキー・クルムロフの案内図が置かれていました。チェスキー・クルムロフがヴルタヴァ川(モルダウ川)が大きくS字を描く場所に築かれていることがよく分かります。
 
チェスキー・クルムロフの案内図
チェスキー・クルムロフの案内図
 
 チェスキー・クルムロフは、13世紀半ばに南ボヘミアの貴族だったヴィートコフ家によって丘の上にクルムロフ城が築かれたのが始まりです。ヴィートコフ家は1302年に断絶して、ローゼンベルク家(チェコ語ではロジェンベルク家)が新たな領主となります。このローゼンベルク家の時代に町は大きく発展し、15世紀頃からクルムロフという町の名前にチェスキー(「チェコの、、」という意味)が加えられてチェスキー・クルムロフと呼ばれるようになりました。
 
 町の中にはバスが入れないので徒歩で観光します。まずは、丘の上に建つチェスキー・クルムロフ城に向かいます。
 
チェスキー・クルムロフ城へ続く道
チェスキー・クルムロフ城へ続く道
チェスキー・クルムロフ城に到着 →
チェスキー・クルムロフ城に到着
 
 チェスキー・クルムロフ城は5つの中庭と40の建物で構成されています。城の規模としては、チェコ国内ではプラハ城に次ぐ大きさとのことです。私たちは城の裏手から入場したので、最初にやってきたのが第5の中庭と呼ばれる場所です。ここには展望テラスがあってチェスキー・クルムロフの町並みを一望することができます。
 
第5の中庭
第5の中庭
展望テラス
展望テラス
 
 展望テラスからは、ヴルタヴァ川に囲まれたチェスキー・クルムロフを一望することができます。
 
チェスキー・クルムロフの町並み
チェスキー・クルムロフの町並み
 
 この町はローゼンベルク家の時代に発展しましたが、やがて財政難に陥り、1601年に町と城は借金のかたにハプスブルク家に明け渡されます。
 
 1625年、ハプスブルク家の皇帝フェルディナント2世は、三十年戦争で手柄を立てたエッゲンベルク家に恩賞としてこの町を与えます。1719年にエッゲンベルク家が断絶すると、シュヴァルツェンベルク家が新たな領主となります。
 
 19世紀になってシュヴァルツェンベルク家が別の町に拠点を移したため、チェスキー・クルムロフは近代化の波に乗り遅れ、時代から取り残されてしまいます。
 
 1914年、チェコはオーストリア・ハンガリー二重帝国のもとで第一次世界大戦に参戦しますが、1918年に敗北します。この町は、新たに建国されたチェコスロバキアの領土に組み込まれましたが、当時の町の人口の8割がドイツ人だったそうです。そのため、1938年にナチスのヒトラーがドイツ人を保護する名目でこの町をドイツに併合しました。
 
 1945年に第二次世界大戦が終了すると町は再びチェコスロバキア領となりますが、戦後にチェコスロバキア全土から多くのドイツ人が国外に追放されてしまいます。追放者は250万人に及んだと言われ、8割の住民を失ったチェスキー・クルムロフも荒廃しました。長い間、町は放置されましたが、1989年のビロード革命が転機となって徐々に復興されていきます。
 
 現在では町の人口は1万5千人まで増え、美しい姿で再建された町は1992年に世界遺産に登録されました。
 
 
 展望テラスからチェスキー・クルムロフの町並みを楽しんだらプラーシュティ橋を渡って城の内部へと進みます。
 
プラーシュティ橋
プラーシュティ橋
橋を渡って宮殿へ →
橋を渡って宮殿へ
 
 城の1階部分にはアーチが設けられています。そのアーチの中を進んでいくと第4の中庭に出ます。もう1つ先の宮殿のアーチを進むと第3の中庭に出ます。この2つの中庭はどちらも黄色の壁をした建物で囲まれています。ここは領主たちが居住した建物になります。
 
第4の中庭
第4の中庭
第3の中庭
第3の中庭
 
 これらの建物の壁は、一見するとレンガが積まれていたり、彫像が飾られているように見えます。しかし、実際はプラハでも見たスグラフィット技法と呼ばれるだまし絵になっています。
 
だまし絵が描かれた壁
だまし絵が描かれた壁 ↑→
だまし絵が描かれた壁