オーストリア旅行記


シェーンブルン宮殿


 今日は終日ウィーンの観光です。ホテルからバスで移動して、まずはシェーンブルン宮殿にやってきました。
 
シェーンブルン宮殿
シェーンブルン宮殿
 
 シェーンブルン宮殿は13世紀後半〜20世紀初頭にかけてオーストリアを統治したハプスブルク家の夏の離宮です。宮殿を見学する前にシェーンブルン宮殿の歴史をまとめてみました。
 
シェーンブルン宮殿の歴史
1311年 「カッタースミューレ」と呼ばれる水車つきの家に関する最初の記録
1529年 第一次ウィーン包囲。オスマン・トルコ軍によってカッタースミューレが破壊される
1548年 ウィーン市長ヘルマン・バイヤーが敷地を購入して「カッターブルク」と呼ばれる城館を建設
1569年 神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世がハプスブルク家の狩猟地としてカッターブルクを購入
1612年 神聖ローマ皇帝マティアスが「美しい泉(シェーナー・ブルネン)を発見
1642年 公文書に「シェーンブルン」という名前が初めて登場
1683年 第二次ウィーン包囲。オスマン・トルコ軍によってシェーンブルン宮殿が破壊される
1696〜
1700年
神聖ローマ皇帝レオポルト1世が建築家フィッシャー・フォン・エルラッハを起用してシェーンブルン宮殿を建設
1743〜
1763年
マリア・テレジア女帝が建築家ニコラウス・フォン・パカッシを起用してシェーンブルン宮殿を大改築
1814〜
1815年
オーストリア皇帝フランツ1世がシェーンブルン宮殿でウィーン会議を開催
1916年 11月21日、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフがシェーンブルン宮殿の一室で死去
1918年 11月11日、オーストリア皇帝カール1世がシェーンブルン宮殿の一室で国事放棄の文書に署名。ハプスブルク王朝の終焉
1961年 アメリカのジョン・F・ケネディ大統領とソ連のニキータ・フルシチョフ首相がシェーンブルン宮殿で会談
1996年 シェーンブルン宮殿が世界遺産に登録される
 
 
 シェーンブルン宮殿はウィーン最大の観光名所なので多くの観光客で賑わいます。幸い、私たちはプラハの聖ヴィート大聖堂と同じく、特別に開館前に貸切で見学することができます。
 
 私がシェーンブルン宮殿を見学するのは4回目になります。過去3回の見学では22の部屋を見学するインペリアルツアーと呼ばれるコースでしたが、今回はグランドツアーと呼ばれる44の部屋を見学するコースです。ちなみに、宮殿全体では1441の部屋があるとのことです。
 
青の階段(シェーンブルン宮殿)
青の階段
 現地ガイドさんについて宮殿に入場しますが、残念ながら宮殿内の撮影は禁止されています。ここではショップで購入した絵ハガキなどを使っていくつかの部屋を紹介したいと思います。
 
 館内に入ったら、まずは「青の階段」をのぼって見学コースになっている2階に進みます。
 
 「警護の間」と、それに続く「ビリヤードの間」を通り抜けると「フランツ・ヨーゼフ帝の執務室」があります。フランツ・ヨーゼフ帝(在位1830〜1916年)は、とても仕事熱心で毎日早朝5時から深夜までこの部屋で執務にあたりました。
 
フランツ・ヨーゼフ帝の執務室(シェーンブルン宮殿)
フランツ・ヨーゼフ帝の執務室
フランツ・ヨーゼフ帝の寝室(シェーンブルン宮殿)
フランツ・ヨーゼフ帝の寝室
 
 執務室の隣は「寝室」です。皇帝の寝室はとても簡素な造りです。フランツ・ヨーゼフ帝は毎日鉄製のベッドで寝て、早朝4時に起床、顔を洗って祈祷台でお祈りを済ませたら執務室に向かうという生活を規則正しく何十年間も繰り返しました。
 
 1916年11月20日、86歳になっていたフランツ・ヨーゼフ帝は肺炎で苦しんでいましたが、いつも通り執務をこなしました。そして、「明日は早朝3時30分に起こすように」と周囲の人たちに伝えて寝室に向かいました。しかし、翌21日に彼が起きることはなく、午前9時5分にこの寝室で崩御しました。