オーストリア旅行記
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ハプスブルク家の王宮
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コールマルクト通りの終着点には、ハプスブルク家の王宮への入口にあたるミヒャエル門があります。
このミヒャエル門の前にミヒャエル広場があります。この広場にローマ軍が駐屯していた頃の遺跡が遺されています。ローマ人が支配していた時代は、「ウィンドボナ」と呼ばれていました。ローマ帝国の黄金時代を支えた五賢帝最後のマルクス・アウレリウス帝(在位161〜180年)が死去したのがこのウィンドボナだったと伝えられています。
![王宮のミヒャエル門](jpg/20150909/20150909-9a.jpg)
王宮のミヒャエル門
ローマ時代の遺跡 →
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![ローマ時代の遺跡](jpg/20150909/20150909-9b.jpg) |
ミヒャエル広場に建っているミヒャエル教会は1220〜1250年頃に建設され、その後もたびたび増改築されました。塔は1590年頃に建てられたもので、高さは78メートルあります。
![ミヒャエル教会](jpg/20150909/20150909-9c.jpg)
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![ロースハウス](jpg/20150909/20150909-9d.jpg)
ロースハウス
← ミヒャエル教会
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コールマルクト通りを挟んでミヒャエル教会の向かい側にはロースハウスと呼ばれる建物があります。建築家アドルフ・ロースが手掛けたもので、1910年に完成した当時は装飾のないシンプルなデザインがウィーンの町並みにあわないと非難されました。
ミヒャエル門をくぐって王宮を見学します。ミヒャエル門のドームの下にはシシィ・ミュージアムへの入口があります。シシィはエリザベート皇后の愛称で、ここには彼女に関する遺品が展示されています。また、ハプスブルク家の人々が使った食器や食卓調度品が展示されている
銀器・食卓調度コレクション の博物館もあります
![シシィ・ミュージアム](jpg/20150909/20150909-9e.jpg)
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![帝国官房棟](jpg/20150909/20150909-9f.jpg)
帝国官房棟
← シシィ・ミュージアム
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ミヒャエル門を抜けると王宮の中庭に出ます。中世の頃にはここで馬上槍試合などのイベントが開催されたそうです。現在は中央に皇帝フランツ2世の銅像が立っています。フランツ2世はマリア・テレジア女帝の孫にあたり、1792年に神聖ローマ帝国の皇帝に即位します。
フランツ2世の時代は、フランスのナポレオンがヨーロッパを席巻した時代でした。オーストリアはロシアやプロイセンと同盟してフランスと戦いましたが敗北を重ね、1806年に神聖ローマ帝国は滅亡しました。その2年前の1804年にフランツ2世はハプスブルク家が統治するオーストリア、ハンガリー、チェコを再編してオーストリア帝国を建国して初代オーストリア皇帝フランツ1世を名乗りました。
![王宮の中庭](jpg/20150909/20150909-9g.jpg)
王宮の中庭
オーストリア皇帝フランツ1世像 →
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![オーストリア皇帝フランツ1世像](jpg/20150909/20150909-9h.jpg)
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中庭の向かい側にはスイス宮があります。スイス宮は、王宮の中で一番古い部分にあたり、1250年代に建設されました。
![旧王宮への入口、スイス門](jpg/20150909/20150909-9i.jpg)
旧王宮への入口、スイス門
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スイス宮への入口にあたる門は「スイス門」と呼ばれています。フェルディナント1世がウィーンを統治した1552年に建設されました。
マリア・テレジア女帝の時代にスイス人の傭兵が門を守護したことからスイス門と呼ばれるようになりました。
スイス門の上部にはフェルディナント1世が保持した数々の称号が刻まれています。左から右に向かってローマ、ドイツ、ハンガリー、ボヘミアのREX(国王)、スペインのINFA(王子)、オーストリアのARC(大公爵)、ブルゴーニュのDVX(公爵)などの称号が並んでいます。
![スイス門に刻まれている文字](jpg/20150909/20150909-9j.jpg)
スイス門に刻まれている文字
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一番下のANNOは制作年を示しています。右下の部分に刻まれているMは1000、Dは500、Lは50、IIは2を意味するので、1552年となります。
中央にはハプスブルク家の紋章が取り付けられていますが、双頭の鷲ではなく頭は1つです。フェルディナント1世が皇帝に即位したのは1556年で、門が建設された1552年は皇太子だったために頭は1つにされました。 |
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