ハプスブルク王朝


ハプスブルク家の結婚政策(1438〜1563)


 1438年、130年ぶりにハプスブルク家に転機が訪れます。この年にハプスブルク家のアルプレヒト2世が皇帝に選出され、その2年後にフリードリヒ3世が皇帝に選出されます。以後、神聖ローマ帝国の帝冠はハプスブルク家が世襲していきます。
 
マクシミリアン1世(オーストリア、ウィーンの美術史美術館)
マクシミリアン1世
  かーつ5世(オーストリア、ウィーンの造形美術アカデミー絵画館)
カール5世
 
 
 フリードリヒ3世の息子マクシミリアン1世は、ブルゴーニュ公国のマリー公女と結婚してネーデルラント(現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルク)を獲得します。さらに、マクシミリアン1世は息子フィリップと娘マルガレーテをスペイン王室と縁組させます。この縁組によって、孫にあたるカール5世の時代にハプスブルク家の領土はヨーロッパの大部分を始め、スペインの植民地になっていた南米大陸や東南アジアまで拡大します。
 
フェルディナント1世(オーストリア、ウィーンの王宮)
フェルディナント1世
 さらに、マクシミリアン1世はカール5世の弟フェルディナントと妹マリアの二人を、当時ハンガリーとボヘミアを統治していたヤゲロー家と縁組させます。
 
 1526年、ヤゲロー家のハンガリー兼ボヘミア王ラヨシュ2世が、「モハーチの戦い」でトルコ軍に敗北し、命を落としてしまいます。王はまだ20歳の若さで後継者がいなかったため、フェルディナント1世がハンガリー(スロバキア、ポーランドやルーマニアの一部を含む)とボヘミアの王位獲得します。
 
 これらの結婚政策は大成功をおさめ、16世紀半ばにハプスブルク家の領土は、現在のドイツ、オーストリア、ハンガリー、チェコ、スロバキア、ポーランド、ルーマニア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、イタリア、スロベニア、スペインのヨーロッパ大陸に加えて、メキシコ、コロンビア、ペルー、ボリビア、チリなどの南米大陸、インドネシア、フィリピン、マレーシアなどの東南アジアに及びました。
 
 これらの領土は、常にどこかに太陽が昇っていることから「太陽が沈むことのない世界帝国」と呼ばれました。
 
ハプスブルク家の最大領土(スイス、アールガウのハプスブルク城)
ハプスブルク家の最大領土(16世紀半ば)
 
1438年 ルクセンブルク家の皇帝ジギスムントが死去。ハプスブルク家のアルプレヒト2世がドイツ王に即位
1440年 フリードリヒ3世がドイツ王に即位
1452年 フリードリヒ3世がローマ教皇から神聖ローマ帝国の皇帝に戴冠される
1453年 トルコのイスタンブールの町並みオスマン帝国がコンスタンティノープルを攻略し、ビザンティン帝国滅亡。
(写真はトルコのイスタンブール(コンスタンティノープル)の町並み)
1477年 マクシミリアン1世がブルゴーニュ公国のマリー公女と結婚
1493年 フリードリヒ3世が死去。マクシミリアン1世が神聖ローマ帝国の皇帝に即位
インスブルックに建つハプスブルク家の王宮マクシミリアン1世が宮廷をウィーンからインスブルックに移す
(写真はインスブルックに建つハプスブルク家の王宮
1496年
フィリップ美公(ウィーンの美術史博物館) スペインのファナ王女(ウィーンの美術史博物館)
マクシミリアン1世の息子フィリップ美公がスペインのファナ王女と結婚
(写真はウィーンの美術史博物館に飾られているフィリップ美公とファナ王女の肖像画)
1506年 フィリップ美公がスペイン滞在中に死去
1516年 カール5世がスペイン王に即位(スペイン王カルロス1世)
1517年 ドイツでマルティン・ルターによる宗教改革がはじまる
1519年 カール5世が神聖ローマ帝国の皇帝に即位
1521年 コルテス、アステカ王国(メキシコ)を征服し、スペイン領とする
1526年 フェルディナント1世がボヘミア王とハンガリー王に即位
1529年 オスマン・トルコ帝国による第一次ウィーン包囲
1533年 ピサロ、インカ帝国(ペルー)を征服し、スペイン領とする
1535年 ウィーンの美術史美術館で開催されていたチュニス遠征に関する特別展のポスターカール5世がチュニスに遠征して、オスマン・トルコの軍隊に勝利
(写真はウィーンの美術史美術館で開催されていたチュニス遠征に関する特別展のポスター
1547年 カール5世がミュールベルクの戦いでプロテスタントの軍隊に勝利
1555年 アウグスブルクの宗教和議でプロテスタントが認められる
1556年 カール5世が退位し、フェルディナント1世が神聖ローマ帝国の皇帝に即位。帝国はオーストリア系とスペイン系に分裂
1558年 カール5世、隠居先のスペインのユステで死去