ハプスブルク王朝


トルコ、フランスとの戦い(1658〜1735)


 1683年、レオポルト1世の治世にウィーンはオスマン・トルコの大軍に包囲されます。三十年戦争のダメージから回復できていないハプスブルク家は城壁に守られたウィーンに籠城しますが、トルコ軍の大砲や地雷による攻撃で陥落寸前まで追い詰められてしまいます。このとき、ポーランド王ヤン・ソビエスキが率いる援軍が駆けつけてトルコ軍を打ち破りました。
 

レオポルト1世(オーストリア、ウィーンの美術史博物館) トルコ軍によるウィーン包囲(オーストリア、ウィーンの歴史博物館)
トルコ軍によるウィーン包囲
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 これを機に反撃に転じたハプスブルク家の軍勢は、名将オイゲン公の指揮のもとで勝利を重ね、ハンガリーからトルコ軍を追い払います。
 
 オーストリア系ハプスブルク家が勢いを盛り返す一方で、スペイン系ハプスブルク家は最後の国王カルロス2世の死によって1700年に断絶してしまいます。スペインは本国以外にベルギーやイタリア、南米、東南アジアに広大な領土を持っていて、これらの領土を巡って「スペイン継承戦争」が勃発します。
 
 新たなスペイン王として候補にあがったのはフランス、ブルボン家のアンジュー公フィリップと、レオポルト1世の二男カール大公でした。
 
カール6世(オーストリア、ウィーンの美術史博物館)
カール6世
フェリペ5世(スペイン、マドリードのプラド美術館)
フェリペ5世
 
 
 好戦的なルイ14世のフランスの勢力拡大を警戒するイギリスやオランダと同盟を締結したオーストリアは、スペイン継承戦争を優勢に進めます。
 
 ところが、戦争中の1705年にレオポルト1世が亡くなります。長男ヨーゼフ1世が跡を継いで戦争を継続しましたが、彼もまた1711年に亡くなってしまいます。ヨーゼフ1世には後継者がいなかったため、バルセロナで軍隊を指揮していたカール大公がウィーンに呼び戻され、カール6世として皇帝に即位します。
 
 カール6世がスペインの王位をあきらめてオーストリアを相続したため、ブルボン家のフィリップがスペイン王フェリペ5世として即位します。
 
 スペインに属する広大な領土は分割され、イギリスはスペインからジブラルタルを獲得して現在に至っています。オーストリアは、ベルギーやイタリアの領土を獲得することに成功し、オーストリア系ハプスブルク家の領土は最大に膨れ上がりました。
 

1658年 レオポルト1世が神聖ローマ帝国の皇帝に即位
1683年 ウィーンの新王宮前に立つオイゲン公騎馬像レオポルト1世、フランスからやってきたプリンツ・オイゲンを将軍として迎える
(写真はウィーンの新王宮前に立つオイゲン公騎馬像)
オスマン・トルコによる第二次ウィーン包囲
1686年 ブダの丘に建つ王宮ハプスブルク家の軍勢がハンガリーのブダを攻略
(写真はハンガリーのブダの丘に建つ王宮
1696年 レオポルト1世、シェーンブルン宮殿の建設を開始
1697年 プリンツ・オイゲン、「ゼンタの戦い」でトルコ軍に勝利
1699年 ハプスブルク家、オスマン・トルコとカルロヴィッツ条約を締結してハンガリー全土を獲得
1700年 スペイン王カルロス2世、死去。世継ぎがなくスペイン系ハプスブルク終焉
1701年 ルイ14世が建設したヴェルサイユ宮殿の鏡の回廊オーストリア系ハプスブルク家とフランスのルイ14世がスペインを巡って対立し、スペイン継承戦争はじまる(〜1714年)
(写真はルイ14世が建設したヴェルサイユ宮殿の鏡の回廊
1703年 ウィーンのグラーベン通りに建つペスト記念柱レオポルト1世、ペストの終焉を記念してウィーンのグラーベン通りにペスト記念柱(三位一体記念碑)を建設
(写真はウィーンのグラーベン通りに建つペスト記念柱)
1705年 レオポルト1世が死去。ヨーゼフ1世が神聖ローマ帝国の皇帝に即位
1711年 ヨーゼフ1世が死去。カール6世が神聖ローマ帝国の皇帝に即位
1713年 オーストリア系ハプスブルク家がユトレヒト条約で南ネーデルラント(ベルギー)、ナポリ、ミラノなどを獲得
1714年 ウィーンのベルヴェデーレ宮殿プリンツ・オイゲン、ベルヴェデーレ宮殿の建設を開始
(写真はウィーンのベルヴェデーレ宮殿
1716年 ウィーンに建つカールス教会カール6世、ペスト終焉を記念してウィーンにカールス教会の建設を開始
(写真はウィーンに建つカールス教会
1718年 ハプスブルク家、オスマン・トルコとパッサロヴィッツ条約を締結してルーマニアやセルビアを獲得。オーストリア系ハプスブルク家の領土が最大になる