ハプスブルク王朝


女帝マリア・テレジア(1736〜1793)


 カール6世には男子の後継ぎがいなかったため、ハプスブルク家の家督はマリア・テレジアが相続します。しかし、周辺諸国は彼女の即位を認めず、オーストリア継承戦争が勃発しました。この戦争で、ハプスブルク家はプロイセン王国のフリードリヒ2世にシュレージエンを占領されてしまいますが、フランツ・シュテファンを皇帝に即位させることに成功しました。
 
フランツ・シュテファンとマリア・テレジアの家族(オーストリア、ウィーンのシェーンブルン宮殿)
フランツ・シュテファンとマリア・テレジアの家族
 
 オーストリア継承戦争の後、マリア・テレジアは国家の近代化に努め、義務教育の導入、医療制度の改善、税制改革、軍隊の強化などに取り組みます。
 
 外交にも力を入れ、16世紀以来の宿敵だったフランスと同盟を結ぶことに成功します。さらに、ロシアとも同盟を結んでプロイセン包囲網を形成します。万全の体制を整えたオーストリアは1756年に勃発した七年戦争でプロイセンを圧倒しました。しかし、決着がつかないまま終戦となり、オーストリアは豊富な資源に恵まれたシュレージエンを永遠に失ってしまいました。
 
独房のマリー・アントワネット(フランス、パリのコンシェルジュリ)
独房のマリー・アントワネット
 ところで、マリア・テレジアと夫フランツ・シュテファンの間には16人の子供が生まれました。二人の末娘が有名なマリー・アントワネットです。彼女は両家の同盟を強固にするためフランスのルイ16世に嫁ぎました。
 
 しかし、1789年にフランス革命が勃発すると、王室一家は投獄されてしまいます。国民裁判でルイ16世とマリー・アントワネットは死刑を宣告され、1793年にパリのコンコルド広場で処刑されました。
 

1736年 マリア・テレジア、ロートリンゲン公フランツ・シュテファンと結婚
1740年 カール6世が死去。マリア・テレジアがハプスブルク家の家督を相続
プロイセン王フリードリヒ2世、シュレージエンを占領。オーストリア継承戦争はじまる(〜1748年)
1741年 ブダペストにあるマリア・テレジアの像マリア・テレジア、ハンガリー女王に即位
(写真はハンガリーのブダペストにあるマリア・テレジアの像
1742年 バイエルン王カール・アルベルト、カール7世として神聖ローマ帝国の皇帝に即位。ハプスブルク家は神聖ローマ皇帝の地位を失う
1743年 マリア・テレジア、ボヘミア女王に即位
ハプスブルク家の夏の離宮シェーンブルン宮殿マリア・テレジア、シェーンブルン宮殿の大改築をはじめる
(写真はウィーンに建つハプスブルク家の夏の離宮シェーンブルン宮殿
1745年 カール7世、死去。マリア・テレジアの夫フランツ・シュテファンが神聖ローマ帝国の皇帝に即位。ハプスブルク家が神聖ローマ皇帝の地位を取り戻す
1756年 ハプスブルク家がロシア、フランスと同盟を締結
8月、七年戦争はじまる
1762年 ロシアのエリザベータ女帝1月、ロシアのエリザベータ女帝が死去。ロシアが七年戦争から離脱
(写真はロシアのエカテリーナ宮殿に飾られているエリザベータ女帝の肖像画)
1763年 2月、「フベルトゥスブルクの和」を締結して七年戦争が終結
1765年 フランツ・シュテファンが死去。ヨーゼフ2世が神聖ローマ帝国の皇帝に即位
1770年 ヴェルサイユ宮殿に飾られているマリー・アントワネットの肖像画マリア・テレジアの娘、マリー・アントワネットがフランスのルイ16世と結婚
(写真はフランスのヴェルサイユ宮殿に飾られているマリー・アントワネットの肖像画)
1780年 マリア・テレジア、死去
1789年 フランス革命勃発
1790年 ヨーゼフ2世が死去。レオポルト2世が神聖ローマ帝国の皇帝に即位
1792年 レオポルト2世が死去。フランツ2世が神聖ローマ帝国の皇帝に即位
1793年 マリー・アントワネットが処刑されたパリのコンコルド広場マリー・アントワネット、処刑される
(写真はマリー・アントワネットが処刑されたパリのコンコルド広場