ハプスブルク王朝


ナポレオン戦争(1794〜1847)


 1789年にフランス革命が勃発します。1792年に革命政府は王政廃止と共和政の成立を宣言し、翌1793年に国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットを処刑します。
 
 1792年に神聖ローマ皇帝に即位したフランツ2世は、革命思想の波及を警戒してイギリスやプロイセンと反フランス同盟を結成します。当時のハプスブルク家はイタリア北部を領有していましたが、フランス軍の進撃の前に敗北を重ねます。このフランス軍を指揮していた人物がナポレオン・ボナパルトでした。
 
フランツ2世(オーストリア、ウィーンの歴史博物館)
フランツ2世
ナポレオン(オーストリア、ウィーンの王宮宝物館)
ナポレオン
 
 
 1804年、ナポレオンはフランス皇帝を名乗ります。これに対してフランツ2世は、ハプスブルク家の領地を総括してオーストリア帝国と呼び、自らオーストリア皇帝フランツ1世を名乗りました。
 
 1805年12月、オーストリアとロシアの連合軍はアウステルリッツでフランス軍に敗北します。翌1806年7月、オーストリアとプロイセンを除くドイツ諸侯が神聖ローマ帝国から離脱してナポレオンと「ライン同盟」を結成します。1806年8月6日、962年以来続いた神聖ローマ帝国は滅亡しました。
 
 オーストリア軍はナポレオン率いるフランス軍に敗北を重ね、2度に渡って帝都ウィーンを占領されてしまいます。1810年にはフランツ2世の娘マリー・ルイーズをナポレオンの王妃として嫁がせます。マリー・ルイーズは祖国を苦しめるナポレオンに嫁ぐことを嫌がりましたが、結婚後は比較的円満な家庭を築き、間もなく二人の間にナポレオン2世(ローマ王)が誕生しました。
 
1812年のヨーロッパ勢力地図
ヨーロッパの勢力地図(1812年)
 
 最終的に反フランス同盟軍はナポレオンに勝利をおさめ、パリを占領します。フランツ1世と外相メッテルニヒは各国の王侯貴族をウィーンに招聘してウィーン会議を開催します。この会議の結果、ハプスブルク家は神聖ローマ帝国を復活させることはできませんでしたが、喪失した領土の大部分を取り戻した上に、ザルツブルクやヴェネチアを新たに獲得しました。
 

1804年 パリのルーヴル美術館に飾られている「ナポレオン1世の戴冠式」ナポレオン、フランス皇帝に即位
(写真はパリのルーヴル美術館に飾られている「ナポレオン1世の戴冠式」)
フランツ2世、オーストリア皇帝フランツ1世を名乗る
1805年 11月13日、フランス軍がウィーンを占領
12月2日、「アウステルリッツの戦い」でオーストリアとロシアの連合軍がフランス軍に敗北
1806年 フランツ2世が神聖ローマ帝国の終焉を宣言したウィーンのアム・ホーフ教会ドイツ諸侯がナポレオンの保護下に「ライン同盟」を結成し、神聖ローマ帝国が消滅
(写真はフランツ2世が神聖ローマ帝国の終焉を宣言したウィーンのアム・ホーフ教会
1809年 フランス軍が再びウィーンを占領
1810年 ウィーンの王宮宝物館に飾られているマリー・ルイーズの肖像画ナポレオン、フランツ1世の娘マリー・ルイーズと結婚
(写真はウィーンの王宮宝物館に飾られているマリー・ルイーズの肖像画
1812年 ナポレオン、モスクワ遠征に失敗
1814年 ウィーン会議(〜1815年)
1815年 ナポレオン、エルバ島を脱出して再びフランス皇帝に即位
「ワーテルローの戦い」で同盟軍がフランス軍に勝利。ナポレオンは再び退位してセント・ヘレナ島に流される
1821年 パリのアンヴァリッドに安置されているナポレオン1世の墓ナポレオン、死去
(写真はパリのアンヴァリッドに安置されているナポレオン1世の墓
1832年 ナポレオン2世(ライヒシュタット公)、シェーンブルン宮殿で死去
1835年 フランツ1世、死去。フェルディナント1世がオーストリア帝国の皇帝として即位
1847年 マリー・ルイーズ、死去