チェコの歴史


プシェミスル王朝(〜1306)


 9世紀初頭、チェコとスロバキアにまたがる地域にモラヴィア王国と呼ばれるスラブ人の国家がありました。モラヴィア王国は、ビザンティン帝国(東ローマ帝国)から派遣されたキリルとメトディオスの布教によってキリスト教を受け入れ発展しましたが、9世紀末にマジャール人(ハンガリー人)の攻撃を受けて崩壊しました。
 
ヴァーツラフ1世(チェコのプラハ)
ヴァーツラフ1世

 モラヴィア王国の時代、現在のプラハ周辺はプシェミスル家が統治していました。モラヴィア王国が崩壊すると、プシェミスル家が勢力を拡大しボヘミア公国(チェコ公国)を建国します。
 
 921年に即位したヴァーツラフ1世は、キリスト教の布教に努め、東フランク王国のハインリヒ1世から譲り受けた聖人ヴィートの遺骨の一部を安置するためにプラハ城の敷地に聖ヴィート大聖堂を建設しました。
 
 約10年の治世の後にヴァーツラフ1世は弟に暗殺されてしまいますが、後に列聖されてチェコの守護聖人になりました。
 
 その頃、東フランク王国では962年にハインリヒ1世の息子オットー1世がローマ教皇から戴冠されて神聖ローマ帝国が誕生します。神聖ローマ帝国は、現在のドイツを中心としてオーストリア、スイスなどを含み、ボヘミアもこの中に組み込まれました。
 
 1212年、プシェミスル・オタカル1世の時代にボヘミア公国は神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世によってボヘミア王国に昇格します。
 
 1253年に即位したオタカル2世(オタカル1世の孫)はオーストリアからスロベニアまで領土を拡大して神聖ローマ帝国の中で最大の実力者となります。当時、神聖ローマ帝国は皇帝が存在しない大空位時代を迎えていました。オタカル2世は皇帝への野心を持っていましたが、オタカル2世の実力を警戒したドイツ諸侯はスイスの貴族ハプスブルク家のルドルフ1世を新たな皇帝(ドイツ王)に選びました。
 
オタカル2世の石棺(チェコ、プラハの聖ヴィート大聖堂)
オタカル2世の石棺

 1278年8月、ウィーン北東のマルヒフェルトでハプスブルク家とプシェミスル家の軍勢が激突します。
 
 この戦いは、ハプスブルク家の勝利に終わり、オタカル2世は戦場で命を落としました。
 
 オタカル2世の敗死後、オーストリアとスロベニアはハプスブルク家の所領となり、プシェミスル家は残されたチェコを保持しました。しかし、1306年にオタカル2世の孫にあたるヴァーツラフ3世が17歳で暗殺されてしまいます。彼には子供がいなかったためプシェミスル家は断絶しました。
 
476年 西ローマ帝国滅亡
6〜7世紀 スラブ人がチェコやスロバキアの周辺に移住
800年 ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂に立つカール大帝の騎馬像フランク王国のカール大帝がローマ教皇から帝冠を授かり、西ローマ帝国復活
(写真はヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂に立つカール大帝の騎馬像
820年頃 モラヴィア王国が成立
863年頃 ビザンティン帝国が聖キリルと聖メトディウスをモラヴィア王国に派遣
9世紀末 プシェミスル朝が成立
921年 ヴァーツラフ1世が即位
955年 東フランク王国のオットー1世の軍勢がレヒフェルトの戦いでマジャール人(ハンガリー人)に勝利
962年 オーストリア、ウィーンの王宮宝物館に展示されている神聖ローマ帝国の冠東フランク王国のオットー1世がローマ教皇から戴冠されて神聖ローマ帝国誕生
(写真はオーストリア、ウィーンの王宮宝物館に展示されている神聖ローマ帝国の冠)
976年 神聖ローマ皇帝オットー2世、オスト・マルク(オーストリア)にバーベンベルク家を封じる
1212年 神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世がボヘミア公国を王国に昇格させる
1246年 オーストリアのバーベンベルク家が断絶
1250年 12月、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が死去。大空位時代が始まる
1253年

1271年
オタカル2世が勢力を拡大してオーストリア、スロベニアを獲得
1273年 スイスのアールガウ州に残るハプスブルク城ハプスブルク家のルドルフ1世がドイツ王に即位
(写真はスイスのアールガウ州に残るハプスブルク城
1278年 「マルヒフェルトの戦い」でオタカル2世の軍勢がルドルフ1世の軍勢に敗北
1282年 オーストリアのウィーンに建つハプスブルク家の王宮ハプスブルク家によるオーストリア統治が始まる
(写真はオーストリアのウィーンに建つハプスブルク家の王宮
1306年 ヴァーツラフ3世が暗殺されてプシェミスル家が断絶