チェコの歴史


ルクセンブルク王朝(1307〜1437)


 1306年にプシェミスル家のヴァーツラフ3世が亡くなると、ボヘミア王国の貴族は当時の神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世の息子ヨハンをヴァーツラフ3世の妹エリシュカと結婚させてボヘミア国王に迎えます。
 
 ヨハンはルクセンブルク家の出身だったので、ヨハンが即位した1310年からルクセンブルク王朝によるボヘミア統治が始まります。
 
カレル1世/カール4世(チェコのプラハ)
カレル1世(皇帝カール4世)
 1316年、ヨハンとエリシュカの間に王子が生まれます。王子はヴァーツラフと名づけられましたが、幼少期をフランスの宮廷で過ごし、当時のフランス王シャルル4世からシャルルという名前を与えられます。
 
 やがて、成人したシャルルはプラハに戻り、チェコ風にカレルと名乗ります。
 
 1346年7月、カレルはドイツ諸侯によってドイツ王に推挙されます。8月には父ヨハンの死に伴ってボヘミア王国の王位を継承します。
 
 1355年4月、カレルはローマで神聖ローマ帝国の皇帝に戴冠されます。彼はボヘミア王としてはカレル1世、神聖ローマ皇帝としてはカール4世と呼ばれました。
 
 カレル1世はプラハを神聖ローマ帝国の帝都にふさわしい町へと大改造します。ヴァーツラフ1世がプラハ城内に建設した聖ヴィート大聖堂の大改築、神聖ローマ帝国内で初となる大学(カレル大学)の建設、モルダウ川に架かるカレル橋の建設など、現在のプラハの町並みはカレル1世の時代に造られました。
 
 カレル1世の時代、ルクセンブルク家はボヘミア王の他に、神聖ローマ皇帝、ハンガリー王、ルクセンブルク公、ブランデンブルク選帝侯などの称号を獲得しました。ドイツ出身の画家アルブレヒト・デューラーが描いたカレル1世の息子ジギスムントの肖像画には、ルクセンブルク家が獲得した5つの称号をあらわす紋章が描かれています。
 
ジギスムント(オーストリア、ウィーンの王宮宝物館) ヤン・フス像(チェコ、プラハの旧市街広場)
ヤン・フス像
← 皇帝ジギスムント
 
 
 1415年、カトリック教会を非難したヤン・フスという聖職者が火刑に処されます。これを機にフスを支持するフス派と呼ばれる人々が蜂起して、1419年7月にフス戦争が勃発します。当時のボヘミア王はカレル1世の息子のヴァーツラフ4世でしたが、彼は翌8月に亡くなり、弟のジギスムントが跡を継ぎます。
 
 フス戦争は、1419〜1436年まで続き、ボヘミアの国土は荒廃しました。終戦の翌1437年にジギスムントは後継者を残さないまま亡くなり、ルクセンブルク家は断絶しました。
 
1310年 ルクセンブルク家のヨハンがエリシュカと結婚してボヘミア王に即位
1316年 ヨハンとエリシュカの間にカレル1世が誕生
1344年 チェコ、プラハに建つ聖ヴィート大聖堂カレル1世が聖ヴィート大聖堂の大改築を開始
(写真はプラハ城に建つ聖ヴィート大聖堂
1346年 7月、カレル1世がドイツ王に選出される
8月、ヨハンが死去。カレル1世がボヘミア王に即位
1355年 4月、カレルがローマで皇帝に戴冠される(カール4世)
1356年 ドイツ、ニュルンベルクの町並み皇帝カール4世がニュルンベルクで金印勅書を発布
(写真はドイツ、ニュルンベルクの中央広場
1357年 カレル橋の建設が始まる(〜1402年)
1378年 カレル1世が死去。ヴァーツラフ4世がボヘミア王に即位
1410年 ジギスムントが神聖ローマ皇帝に即位
1415年 プラハ大学の学長ヤン・フスが火刑に処される
1419年 ヤン・フス像が立つチェコ、プラハの旧市街広場7月、ボヘミアでフス戦争が勃発(〜1436年)
(写真はヤン・フス像が立つチェコ、プラハの旧市街広場
8月、ヴァーツラフ4世が死去。ジギスムントがボヘミア王に即位
1437年 ジギスムントが死去し、ルクセンブルク家が断絶