チェコの歴史


ハプスブルク王朝(1438〜1617)


 ルクセンブルク家の断絶後、神聖ローマ帝国の帝冠はオーストリアのハプスブルク家に継承され、ボヘミアとハンガリーの王冠はヤゲロー家に継承されます。しかし、ヤゲロー家は、わずか2代で断絶してしまいます。
 
フェルディナント1世(オーストリア、ウィーンの新王宮)
フェルディナント1世
 1526年8月、ヤゲロー家のラヨシュ2世はハンガリーに進軍するトルコの大軍をモハーチで迎え撃ちましたが、大敗北を喫して自らも命を落としてしまいます。
 
 ラヨシュ2世には子供がいなかったため、彼の姉アンナと結婚していたハプスブルク家のフェルディナント1世がボヘミアとハンガリーの王位を継承します。
 
 以後、20世紀初頭までハプスブルク家によるオーストリア、ハンガリー、ボヘミア支配が続きます。
 
 16世紀以降、ヨーロッパには宗教改革の嵐が吹き荒れてカトリックとプロテスタントが激しく対立しました。フェルディナント1世の孫にあたるルドルフ2世は1575年にボヘミア王、1576年に神聖ローマ皇帝に即位しましたが、宗教問題やトルコとの争いを避けてウィーンからプラハに拠点を移します。
 
 プラハ城に引きこもったルドルフ2世は、美術品の収集、錬金術、占星術などに没頭して天文学者のヨハネス・ケプラーや画家のジュゼッペ・アルチンボルトたちと交流を持ちました。
 
ルドルフ2世(オーストリア、ウィーンの王宮宝物館)
ルドルフ2世
マティアス(オーストリア、ウィーンの王宮宝物館)
マティアス
 
 
 政務を顧みないルドルフ2世に帝国の諸侯たちは不満を募らせます。彼らはルドルフ2世と不仲だった弟のマティアスを頼るようになります。諸侯の支援を得たマティアスは1611年にプラハ城に乗り込んで兄から強引に帝位を譲り受けます。翌1612年、ルドルフ2世はプラハで失意のうちに亡くなりました。
 
1471年 ヤゲロー家のヴラディスラフ2世がボヘミア王に即位
1516年 ラヨシュ2世(オーストリア、ウィーンの美術史美術館)ヴラディスラフ2世が死去。ラヨシュ2世がハンガリーとボヘミアの国王に即位
(写真はハンガリー王ラヨシュ2世の肖像画)
1519年 オーストリア、ウィーンの美術史美術館に展示されているカール5世の肖像画ハプスブルク家のカール5世が神聖ローマ皇帝に即位
(写真はオーストリア、ウィーンの美術史美術館に展示されているカール5世の肖像画
1526年 「モハーチの戦い」でハンガリー軍がトルコ軍に敗北。ラヨシュ2世が戦死してヤゲロー家が断絶し、ハプスブルク家のフェルディナント大公がボヘミアとハンガリーの王位を相続
1556年 カール5世が退位して、フェルディナント大公が神聖ローマ帝国の皇帝に即位(フェルディナント1世)
1564年 フェルディナント1世が死去。マクシミリアン2世が神聖ローマ帝国の皇帝に即位
1575年 ルドルフ2世がボヘミア王に即位
1576年 ルドルフ2世が神聖ローマ帝国の皇帝に即位
1583年 チェコ、プラハの町並みルドルフ2世が宮廷をボヘミアのプラハに移す
(写真はチェコ、プラハの町並み
1611年 マティアス、兄ルドルフ2世の宮廷があるプラハに乗り込む
1612年 マティアスが神聖ローマ帝国の皇帝に即位
1617年 フェルディナント2世がボヘミア王に即位