チェコの歴史


三十年戦争(1618〜1648)


 プラハの観光名所になっている旧市街広場の片隅に27の白い十字架が描かれた石畳があります。これは1618〜1648年に繰り広げられた三十年戦争のメモリアルです。
 
チェコ、プラハの旧市街広場
チェコ、プラハの旧市街広場
石畳に描かれた27の十字架
石畳に描かれた27の十字架
 
 15世紀のフスや16世紀のルターによる宗教改革以来、神聖ローマ帝国の北部(北ドイツやボヘミア)ではフス派やルター派などプロテスタントの人口が増えていました。1617年にボヘミア王に即位したフェルディナント2世は熱狂的なカトリック信奉者で、容赦なくプロテスタントを弾圧しました。
 
プラハ城窓外放擲事件(チェコ、プラハの王宮)
プラハ城窓外放擲事件
 これに抗議するため、1618年5月23日にプロテスタント派の人々がプラハ城に押しかけて皇帝の代官たちをプラハ城の窓から放り出してしまいます。
 
 この事件をきっかけとして三十年戦争が勃発します。
 
 1620年11月、フェルディナント2世が派遣した皇帝軍とボヘミアのプロテスタント軍はプラハ郊外のビーラー・ホラ(白山)で激突します。この「ビーラー・ホラの戦い」は、ボヘミア軍の足並みが揃わず、わずか2時間で敗北しました。
 
 勝利した皇帝フェルディナント2世は反乱者を容赦なく弾圧します。
 
フェルディナント2世(オーストリアのグラーツにて)
フェルディナント2世
 プラハの旧市街広場に用意された処刑台では反乱軍の指導者27人が処刑されます。冒頭で紹介した27の十字架は彼らの首が置かれた場所を示しています。
 
 さらに、650を超える貴族と50を超える都市の領地が没収され、15万人がボヘミア国外に追放されました。
 
 三十年戦争は、ボヘミアでの反乱は初期の段階で鎮圧されました。その後、戦場はドイツに移って文字通り三十年に渡って続けられ、1648年のウェストファリア条約で終結しました。
 
 長引く戦乱でドイツは著しく疲弊し、ハプスブルク家の権威は失墜しましたが、ボヘミアではハプスブルク家の絶対王政が確立します。また、カトリックの堅持に成功し、チェコ語に加えてドイツ語が公用語に加えられるなど、ボヘミアではドイツ化が推し進められました。
 
1618年 5月、ボヘミアのプロテスタントがプラハ城の窓から皇帝の代官を放り出す(プラハ城窓外放擲事件)
1619年 マティアスが死去し、フェルディナント2世が神聖ローマ帝国の皇帝に即位
1620年 11月、「ビーラー・ホラの戦い」でカトリック派の皇帝軍がプロテスタント派の軍勢に勝利
1623年 ドイツ、ハイデルベルクの町並み皇帝軍がボヘミア軍を支援したプファルツ選帝侯フリードリヒ5世のハイデルベルクを攻略
(写真はドイツ、ハイデルベルクの町並み
1624年 デンマークがプロテスタント派に味方して参戦
1626年 皇帝軍がデンマーク軍に勝利
1629年 ハプスブルク家とデンマークの間で「リューベックの和」が締結される
1630年 スウェーデンがプロテスタント派に味方して参戦
1631年  9月、「ブライテンフェルトの戦い」でティリ将軍が率いる皇帝軍がスウェーデン軍に敗北
ドイツ、ローテンブルクの町並み10月、ティリ将軍が率いる皇帝軍がプロテスタント派のローテンブルクを攻略
(写真はドイツ、ローテンブルクの町並み
1632年 11月、「リュッツエンの戦い」でヴァレンシュタイン将軍が率いる皇帝軍がスウェーデン王グスタフ・アドルフを討ち取る
1634年 2月、フェルディナント2世がヴァレンシュタイン将軍を暗殺
9月、皇帝軍が「ネルトリンゲンの戦い」でスウェーデン軍に勝利
1635年 フランスがプロテスタント派に味方して参戦
1637年 オーストリアのグラーツに建つフェルディナント2世の霊廟フェルディナント2世が死去。フェルディナント3世が神聖ローマ帝国の皇帝に即位
(写真はオーストリアのグラーツに建つフェルディナント2世の霊廟
1642年 11月、「第二次ブライテンフェルトの戦い」で皇帝軍がスウェーデン軍に敗北
1648年 「ツスマルスハウゼンの戦い」で皇帝軍がフランスとスウェーデンの連合軍に敗北
10月24日、ウェストファリア条約を締結して三十年戦争が終結