チェコの歴史
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チェコスロバキア共和国(1918〜)
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第一次世界大戦末期の1918年10月28日、チェコスロバキア共和国が誕生します。チェコ人とスロバキア人は共にスラブ民族をルーツとしていました。
第一次世界大戦後(1918年)の中欧
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しかし、この国は建国当初から多くの問題を抱えていました。
チェコはボヘミア王国として歩んできた歴史があり、首都プラハはヨーロッパ屈指の大都市でした。チェコは工業が盛んで高等教育を受けた知識人が数多くいました。
一方で、スロバキアは貧しい農村地帯が多く、十分な教育を受けることができない人々が多数いました。
スロバキアには一定の自治権が約束されていましたが、実際には国家の要職はチェコ人で占められチェコ主導で国家が運営されました。また、チェコとスロバキアでは貧富の格差が生まれ、徐々にスロバキア人の間に不満が溜まっていきました。
チェコスロバキアは、こうした2国間の問題に加えて民族問題も抱えていました。国境付近の町ではハンガリー人やポーランド人が取り残された形で暮らしていました。特にチェコとドイツの国境にあたるズデーテン地方の住民はドイツ人が大部分を占めていました。
1938年、ドイツの政権を掌握したヒトラーは、ドイツ人の保護を名目にズデーテン地方をドイツに併合します。さらに、チェコを占領し、スロバキアを保護国とします。この体制は第二次世界大戦が終結する1945年まで続きました。
二度の革命の舞台になったヴァーツラフ広場 |
第二次世界大戦後、チェコスロバキアはハンガリーと共にソ連の共産主義に組み込まれます。
1968年、自由を求めて「プラハの春」運動が起こりますが、ワルシャワ条約機構軍によって鎮圧されました。
約20年後、1989年11月にベルリンの壁が崩壊します。チェコスロバキアでも人々がデモや集会を繰り広げ、翌12月に共産政権を打倒しました。この革命は血を流すことがなかったことから「ビロード革命」と呼ばれました。
しかし、革命後もチェコとスロバキアの間でくすぶっていた問題は解消されませんでした。1993年1月1日、連邦制は解消され、チェコ共和国とスロバキア共和国が誕生します。武力衝突や流血騒ぎもなく分離したことから1989年の革命になぞらえて「ビロード離婚」と呼ばれました。
1919年 |
3月、皇帝一家がスイスへ亡命 |
1922年 |
カール1世がマデイラ島で死去
(写真はオーストリア、ウィーンのペーター教会に飾られているカール1世の肖像画) |
1933年 |
ドイツでヒトラーが政権を掌握 |
1938年 |
3月、ドイツがオーストリアを併合 |
10月、ドイツがズデーテン地方を併合 |
1939年 |
3月、ドイツがチェコを占領。スロバキアはドイツの保護国として独立 |
9月、第二次世界大戦が勃発(〜1945年) |
1945年 |
4月、ドイツ軍からブラチスラバを解放 |
5月、ドイツ軍からプラハを解放 |
1968年 |
「プラハの春」運動が起こり、ワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキアに侵攻
(写真はチェコ、プラハのヴァーツラフ広場にある記念碑) |
1969年 |
チェコスロバキアが連邦制を導入 |
1989年 |
12月、「ビロード革命」で共産党政権が崩壊 |
1993年 |
1月、連邦制が解消され、チェコ共和国とスロバキア共和国が誕生(ビロード離婚)
(写真はスロバキアの首都ブラチスラバの町並み) |
2004年 |
5月、チェコとスロバキアがEUに加盟 |
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