ハンガリーの歴史


マジャール人、西へ(〜999)


 ハンガリーの首都ブダペストにはアンドラーシ通りと呼ばれる大通りが走っています。この大通りはパリのシャンゼリゼ通りを模して造られたもので、ドナウ川沿いの景観と共に世界遺産に登録されています。
 
 この大通りの終着点に英雄広場と呼ばれる大きな広場があります。この広場はマジャール人のハンガリー到達1000年を記念して建設されたもので、ハンガリーの歴史を築いてきた英雄たちの銅像が並んでいます。
 
ヴァーツラフ1世(チェコのプラハ)
アールパード(英雄広場)
アールパード(英雄広場)
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 ハンガリー人の祖先であるマジャール人はアジア系の遊牧民でした。もともと、彼らはウラル山脈の南部に広がる平原で暮らしていましたが、数百年の歳月をかけて徐々に西方へと移動してきました。
 
 マジャール人が現在のハンガリーがあるカルパチア盆地に到達したのは896年の出来事とされています。彼らは宗教上の指導者クルサーンと軍事上の指導者アールパードの2人の首長に率いられた7つの部族で構成されていました。
 
 彼らは、10世紀には現在のチェコ東部からスロバキアにまたがる領土を支配したモラヴィア王国を滅ぼし、さらにイタリアやバルカン半島へも侵入して周辺諸国を恐れさせましたが、955年8月に「レヒフェルトの戦い」で東フランク王国(ドイツ)の軍勢に敗北を喫します。この時ドイツ軍を率いていたオットーは、962年にローマ教皇から戴冠されて神聖ローマ帝国を建国します。
 
洗礼を受けるヴァイク(ハンガリー国立美術館)
洗礼を受けるヴァイク
 一方で、ドイツ軍に敗北したマジャール人はカルパチア盆地に定住して牧畜や農業で生計を立てるようになっていきます。この時期にドナウ川の両岸にブダとペストの町が建設されました。
 
 972年に首長となったアールパードの曾孫にあたるゲーザの時代には、エステルゴムを居城としてキリスト教を受け入れていきます。
 
 ゲーザの息子のヴァイクもキリスト教の洗礼を受けてイシュトヴァーンと名を改めます。996年には神聖ローマ帝国の諸侯の1人であるバイエルン公の王女を妻とし、翌997年には父から首長の座を継承しました。
 
2世紀頃 ローマ帝国が現在のブダ地区に軍団基地アクインクムを建設
476年 西ローマ帝国滅亡
820年頃 現在のチェコ東部とスロバキアを含む地域にモラヴィア王国が成立
895年 マジャール人がカルパチア盆地に到達
904年 クルサーンが死去。アールパードの単独統治が始まる(アールパード朝成立)
907年 アールパードが死去
955年 東フランク王国のオットー1世の軍勢がレヒフェルトの戦いでマジャール人(ハンガリー人)に勝利
962年 オーストリア、ウィーンの王宮宝物館に展示されている神聖ローマ帝国の冠東フランク王国のオットー1世がローマ教皇から戴冠されて神聖ローマ帝国誕生
(写真はオーストリア、ウィーンの王宮宝物館に展示されている神聖ローマ帝国の冠)
972年 ゲーザが首長に即位
976年 神聖ローマ皇帝オットー2世、マジャール人に対する防衛拠点オスト・マルク(現在のオーストリア)にバーベンベルク家を封じる
985年 ゲーザの息子ヴァイクがキリスト教の洗礼を受けてイシュトヴァーンに改名
996年 イシュトヴァーンがバイエルン公女ギーゼラと結婚
997年 ゲーザが死去。イシュトヴァーンが首長に即位