ハンガリーの歴史


ハンガリー王国の誕生(1000〜1301)


 1000年12月25日、イシュトヴァーンはローマ教皇シルヴェステル2世から王冠を授かりハンガリー王国を建国します。イシュトヴァーンの時代にハンガリーの領土はトランシルヴァニア地方やスロバキアに及びました。
 
聖イシュトヴァーン(英雄広場)
聖イシュトヴァーン
聖ラースロー(英雄広場)
聖ラースロー
 
 
 イシュトヴァーンは国内を整備する一方で、ヴェネチアから宣教師ゲッレールトを招いてキリスト教の布教に努めます。イシュトヴァーンは、ゲッレールトに王妃ギーゼラとの間に生まれた王子イムレの教育も託しましたが、イムレは若くして亡くなってしまいました。
 
 後継者を失ったイシュトヴァーンが1038年に亡くなると、王位を巡って内紛がおこります。この内紛は、1077年に国王に即位したラースローによって収まりました。ラースローは現在でも国民に人気がある国王で、彼の時代にクロアチアまで領土を拡大します。また、ラースローはイシュトヴァーンと王子イムレを列聖するようにヴァチカンに働きかけました。2人は聖人となり、後にラースローも聖人に列せられました。
 
 こうしてハンガリー王国は目覚ましい発展を続けましたが、13世紀に恐怖のどん底に突き落とされます。1206年、はるか東の果てにあるモンゴルをチンギス・ハンが統一します。チンギス・ハンの跡を継いだオゴタイ・ハンはヨーロッパ征服のために大軍を派遣します。
 
ベーラ4世(英雄広場)
ベーラ4世
 モンゴル軍は1240年にロシア全土を征服し、翌1241年にハンガリーとポーランドに侵攻してきます。1241年4月9日にポーランド軍は「ワールシュタットの戦い」でモンゴル軍に大敗しました。
 
 一方で、ハンガリー軍は当時の国王ベーラ4世自らモンゴル軍を迎え撃ちましたが、4月11日の「モヒの戦い」でポーランドと同じく大敗しました。モンゴル軍は逃走するベーラ4世を追ってハンガリー全土を荒らして回り、当時の首都エステルゴムも破壊されてしまいました。
 
 ハンガリーを征服したモンゴル軍は、さらに西へ進みオーストリアやボヘミアに達しましたが、1241年12月にオゴタイ・ハンが死去したという知らせがヨーロッパ遠征中のモンゴル軍に届きます。モンゴル軍は一斉に撤退してヨーロッパは救われました。
 
 生き延びたベーラ4世は、すぐに破壊されたハンガリーの再建に取り組みます。ブダの丘に王宮が築かれたのもベーラ4世の時代です。ベーラ4世は中興の祖となりましたが、孫たちの代でアールパード朝は断絶しました。
 
1000年 ハンガリーのブダペストに建つ聖イシュトヴァーン大聖堂イシュトヴァーンが王冠を授かりハンガリー王国が誕生
(写真はハンガリーのブダペストに建つ聖イシュトヴァーン大聖堂
1018年 ハンガリー王国がスロバキアを領土に組み込む
1038年 ラースロー1世がハンガリー王に即位(〜1095年)
1094年 クロアチアのザグレブに建つ聖母マリア大聖堂ラースロー1世がザグレブに司教座を置き、聖母マリア大聖堂の建設
(写真はクロアチアのザグレブに建つ聖母マリア大聖堂
1222年 ハンガリー、ブダペストの英雄広場に立つアンドラーシュ2世像国王アンドラーシュ2世が金印勅書を発布して貴族たちの権利を認める(ハンガリー版のマグナ・カルタ)
(写真はハンガリー、ブダペストの英雄広場にアンドラーシュ2世像)
1235年 ベーラ4世がハンガリー王に即位(〜1270年)
1241年 4月9日、「ワールシュタットの戦い」でポーランド軍がモンゴル軍に大敗
4月11日、「モヒの戦い」でハンガリー軍がモンゴル軍に大敗
1242年 ハンガリーのブダペストに建つ王宮ベーラ4世がブダの丘に王宮を建設
(写真はハンガリーのブダペストに建つ王宮
1245年 オーストリア軍と交戦。オーストリアを統治するバーベンベルク家のフリードリヒ公が戦死してバーベンベルク家が断絶
1273年 スイスのアールガウに遺るハプスブルク城スイスの貴族ルドルフ・フォン・ハプスブルクがドイツ王に即位
(写真はスイスのアールガウに遺るハプスブルク城
1282年 ハプスブルク家によるオーストリア統治が始まる
1301年 国王アンドラーシュ3世が死去し、アールパード朝が断絶