ハンガリーの歴史


オスマン・トルコの支配(1491〜1682)


 1526年8月29日、中央ヨーロッパに広大な領土を有する強国へと成長していたハンガリー王国の運命は一転します。
 
 1490年にマーチャーシュ1世が没すると、これまで強力な国王に押さえつけられていた貴族たちが勢力を盛り返します。その貴族たちは農民を農奴として扱ったため各地で農民たちの反乱が起こります。その代表が1514年にドージャ・ジェルジに率いられた農民一揆でした。
 
 1516年にヤゲロー家のラヨシュ2世がハンガリーとボヘミアの国王に即位しますが、彼はわずか10歳だったため王国をまとめることができませんでした。こうした状況の中でハンガリーと国境を接するトルコが動き始めます。
 
モハーチの戦い(トルコ、イスタンブールの軍事博物館)
モハーチの戦い
 1521年、トルコ軍はかつてフニャディ・ヤーノシュが守り抜いたベオグラードを攻略します。
 
 そして、1526年に5万のトルコ軍がハンガリーの国境を越えて攻め込んできます。
 
 ラヨシュ2世は王国をまとめきれないまま、かき集めた2万5千の兵士を連れて国境に近いモハーチ平原でトルコ軍を迎え撃ちます。運命の1526年8月29日、ハンガリー軍とトルコ軍は激突します。16時頃に始まった戦闘は、わず1時間30分で決着が着きました。
 
ラヨシュ2世の遺体の発見(ハンガリー、ブダペストの国立美術館)
ラヨシュ2世の遺体の発見
 ハンガリー軍は総崩れとなり、ラヨシュ2世は敗走中にチェレ川に転落して命を落としてしまいます。まだ20歳の若さでした。
 
 国王を始め、多くの将兵を失ったハンガリーは立ち直ることができず、1541年にブダとペストがトルコ軍に占領されてしまいます。以後150年に渡ってハンガリーの中央から南部に及ぶ領土がトルコの支配下に入ります。
 
 一方、ハンガリー王国はかろうじて北から北西部の領土を確保して、ポジョニ(スロバキアの首都ブラチスラバ)に首都を置きます。ラヨシュ2世は生前、ハプスブルク家のフェルディナント1世の妹マリアを王妃に迎えていました。また、ラヨシュ2世の姉アンナはハプスブルク家のフェルディナント1世の王妃となっていました。この縁でフェルディナント1世がハンガリーとボヘミアの国王として迎えられます。以後、ハプスブルク家は20世紀初頭までオーストリア、ハンガリー、ボヘミアを支配します。
 
 残されたハンガリー東部は、トルコの保護のもとでトランシルヴァニア公国を樹立しました。
 
ボチカイ・イシュトヴァーン(英雄広場)
ボチカイ・イシュトヴァーン
ベトレン・ガーボル(英雄広場)
ベトレン・ガーボル
 
 
 新たにハンガリーの支配者となったハプスブルク家はハンガリーの領土を巡ってトルコと戦う一方でトランシルヴァニア公国とも対立しました。トランシルヴァニアの貴族であるボチカイ・イシュトヴァーン(1557〜1606年)やベトレン・ガーボル(1580〜1629年)はハプスブルク家に対する反乱を起こし、トランシルヴァニア公国の独立を維持しました。
 
1514年 ドージャ農民戦争
1516年 ハンガリー王ラヨシュ2世の肖像画ヤゲロー家のラヨシュ2世がハンガリーとボヘミアの国王に即位(〜1526年)
(写真はハンガリー王ラヨシュ2世の肖像画)
1521年 トルコ軍がベオグラードを攻略
1526年 オーストリア、ウィーンの美術史美術館に展示されているフェルディナント1世の肖像画8月、「モハーチの戦い」でハンガリー軍がトルコ軍に大敗。ラヨシュ2世が戦死してヤゲロー家が断絶。ハプスブルク家のフェルディナント1世がハンガリーとボヘミアの国王に即位
(写真はオーストリア、ウィーンの美術史美術館に展示されているフェルディナント1世の肖像画
1541年 トルコ軍がブダとペストの両市を占領。ハンガリーはトルコとハプスブルク家とトランシルヴァニア公国で三分割される
1556年 フェルディナント1世が神聖ローマ帝国の皇帝に即位(〜1564年)
1604年 ボチカイ・イシュトヴァーンがハプスブルク家に反乱を起こす。翌1605年にトランシルヴァニア公に即位(〜1606年)
1613年 ベトレン・ガーボルがトランシルヴァニア公に即位(〜1629年)
1618年 三十年戦争の引き金になったプラハ城の窓外放擲事件ドイツ三十年戦争が勃発(〜1648年)
(写真はチェコ、プラハの王宮に展示されている三十年戦争の引き金になったプラハ城窓外放擲事件
1678年 ハンガリー、ブダペストの英雄広場に立つテケリ・イムレ像テケリ・イムレがハプスブルク家に対して反乱を起こす
(写真はハンガリー、ブダペストの英雄広場に立つテケリ・イムレ像