ハンガリーの歴史


ハンガリーその後(1919〜)


 戦後のトリアノン条約によって、ハンガリーは東部のトランシルヴァニアをルーマニアに割譲します。また、北西部のスロバキアはチェコとともにチェコスロバキア共和国を建国します。これによってハンガリーは国土の7割を失いました。
 
第一次世界大戦後(1918年)の中欧
第一次世界大戦後(1918年)の中欧
 1921年、ハプスブルク家のカール1世は2度に渡ってハンガリー王への復位を企てました。しかし、計画は失敗し皇室一家は大西洋の孤島マデイラ島に追放されました。
 
 皇室一家はオーストリアを去るにあたって財産を政府に没収されていたためマデイラ島では貧しい暮らしを送りました。翌1922年にカール1世は肺炎にかかりましたが医者に診てもらうことができないまま34歳で亡くなりました。
 
 ナチス・ドイツのヒトラーが引き起こした第二次世界大戦(1939〜1945)の終戦後、かつての帝国領だったハンガリーやチェコスロバキアは共産主義のソ連に組み込まれてしまいます。
 
 1956年にハンガリー動乱が起こり、首相となったナジ・イムレはソ連からの独立を目指します、この革命に対して、ソ連はブダペストに戦車を進軍させて独立運動を鎮圧、ナジ・イムレは処刑されました。
 
 1980年代になると、ソ連でペレストロイカと呼ばれる改革運動が始まります。ソ連で民主主義運動が高まる中で、1989年5月にハンガリー政府はオーストリアとの国境に張り巡らされていた有刺鉄線を切断して国境を開放します。
 
 そして、同じ年の8月にオーストリアとの国境にあるショプロンという町で「汎ヨーロッパ・ピクニック」と呼ばれる集会が開催されます。かつての皇帝カール1世の長男オットー大公がこの集会を支援していました。
 
ブダペストの国会議事堂
ブダペストの国会議事堂
 この集会には、西欧に亡命するチャンスを狙っていた東ドイツの人々が大勢参加しました。大挙してオーストリアに亡命していく東ドイツ人をハンガリーの国境警備隊は黙って見送ったそうです。
 
 同じ年の1989年11月、ベルリンの壁が崩壊します。ハンガリーは少し前の10月23日に「ハンガリー人民共和国」から「ハンガリー共和国」になりました。民主政に移行したハンガリーは、2004年にEUに加盟し、2007年にはシェンゲン協定に加盟しました。
 
 2011年には憲法を改正し、国名も「ハンガリー共和国」から「ハンガリー」へと変更して新たな一歩を踏み出しました。
 
1919年 3月、皇帝一家がスイスへ亡命
1920年 6月、「トリアノン条約」でハンガリーの領土が確定
1921年 3月、カール1世がハンガリー王への復位を企てるが失敗
10月、カール1世が再びハンガリー王への復位を企てるが失敗
11月、皇帝一家がマデイラ島に追放される
1922年 4月、カール1世がマデイラ島で死去
1939年 第二次世界大戦が勃発(〜1945年)
1944年 3月、ナチス・ドイツがハンガリーを占領
1945年 ソ連軍がブダペストを解放
1955年 オーストリアが永世中立国として独立
1956年 ハンガリー動乱。ソ連の戦車がブダペストに侵攻
1968年 プラハの春。ワルシャワ条約機構軍がプラハに侵攻
1989年 オーストリア、ウィーンのカプチナー教会に安置されているツィタ皇后の棺3月、カール1世の妃ツィタ皇后がスイスで死去
(写真はオーストリア、ウィーンのカプチナー教会に安置されているツィタ皇后の棺
8月、汎ヨーロッパ・ピクニック集会。東ドイツの人々が国境を越えてオーストリアに亡命
10月、国名を「ハンガリー人民共和国」から「ハンガリー共和国」に変更
11月、ベルリンの壁が崩壊
1993年 1月、チェコとスロバキアが分裂
2004年 ハンガリーがEUに加盟
2007年 ハンガリーがシェンゲン協定に加盟
2011年 国名を「ハンガリー共和国」から「ハンガリー」に変更