ポーランド旅行記


トルン散策


 続いて向かうのは、ジェラゾヴァ・ヴォラから北西に約185キロメートルの位置にあるトルンという町です。
 
 12時にジェラゾヴァ・ヴォラを出発したバスは、途中でトイレ休憩を挟んで、14時40分にトルンに到着しました。ヴィスワ川沿いの駐車場でバスをおりて徒歩で旧市街に向かいます。
 
ヴィスワ川
ヴィスワ川
洪水の記録
洪水の記録
 
 このヴィスワ川は、古くからたびたび洪水を起こしています。旧市街の入口に向かう途中で見かけたレンガ造りの壁には氾濫した年代と水位が書かれたプレートがはめ込まれていました。
 
 トルンの旧市街は城壁に囲まれています。私たちはモナスター門から旧市街に入ります。
 
トルン旧市街へ
トルン旧市街へ
モナスター門
モナスター門
 
 トルンは、1230年にドイツ騎士団が建設した要塞が起源となっています。1280年頃にハンザ同盟に加盟して大きく発展し、1466年にポーランド領となりました。
 
 ポーランドは、1772〜1795年にかけて、ロシア、オーストリア、プロイセン(ドイツ)という大国によって領土が分割されて国家が消滅した悲しい歴史があります。トルンは1793年の第二次ポーランド分割によってプロイセン領となりました。ポーランドは1918年に独立を取り戻し、1919年にトルンも再びポーランド領になりました。
 
コペルニクス通り
コペルニクス通り
コペルニクスの生家 →
コペルニクスの生家
 
 トルンは、学者ニコラウス・コペルニクス(1473〜1543年)が生まれた町として知られています。コペルニクス通りに、彼の生家が残されています。現在は博物館になっていて、コペルニクスに関連する品々が展示されています。
 
 
 コペルニクスはラテン語名で、ポーランドでは「ミコワイ・コペルニク」と呼ばれています。彼はポーランドのクラクフを始め、イタリアのボローニャやパドヴァの大学で医学、数学、経済学などを学びました。彼は天文学にも興味を持ち、天体観測や研究の成果として地動説を唱えました。
 
 古来から、太陽や惑星は神によって造られた地球を中心に回っているという天動説が信じられてきました。地動説は、地球が太陽を中心に回っているとする説で、天動説を否定するものでした。彼は、異端として弾劾されることを恐れ、地動説を公表したのは死の間際の1543年でした。
 
コペルニクスの年表(1473〜1543年)
コペルニクス 1473年 2月、トルンで誕生
1491年 クラクフ大学に入学。修辞学、文法学、数学、天文学などを学ぶ
1495年 フロムボルク(フラウエンブルク)の聖堂参事会員に選ばれる
1496年 イタリアのボローニャ大学に入学。法律学を学ぶ
1501年 イタリアのパドヴァ大学に入学。医学を学ぶ
1525年 ドイツ騎士団がポーランド王に臣従してプロイセン公国が成立
1529年頃 コペルニクスが地動説に関する論文を書き始める
1539年 ヴィッテンベルク大学の教授ゲオルク・レティクスがコペルニクスの弟子になる
1543年 「天球の回転について」を刊行し、地動説を公表
5月24日、フロムボルクで死去(享年70歳)
 
 コペルニクス通りを進んでいくと、聖ヨハネ大聖堂が見えてきます。13世紀に建設が始まり、15世紀に完成しました。コペルニクスはここで洗礼を受けました。
 
聖ヨハネ大聖堂
ジェグラルスカ通り
ジェグラルスカ通り
← 聖ヨハネ大聖堂
 
 聖ヨハネ大聖堂の前で、コペルニクス通りと交差しているジェグラルスカ通りを進みます。