ポーランド旅行記
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アウシュヴィッツ強制収容所
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続いて5号棟に入ります。
ここには、移送されてきた人々の遺品が展示されています。ナチスは、諸外国に対して、この収容所を「ユダヤ人を保護するための施設」として巧妙に宣伝していました。移送されてきた人々は、自分たちを待ち受ける残酷な結末に気づかないまま、生活用品や身の回りのものを持参していました。

5号棟
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鍋、皿などの日用品
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1階と2階の各部屋には、食器や調理器具などの日用品をはじめ、身の回りのものを詰めていたと思われるカバン、身に着けていた衣類や靴が大量に展示されています。メガネや歯ブラシ、義手や義足なども展示されています。

遺品となったトランクやカバン
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遺品となった靴
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ナチスは、ここを「ユダヤ人を保護するための施設」として諸外国に宣伝していましたが、勇気ある諜報員たちの活動によって、徐々にこの収容所の実情が連合軍に知られていきます。
ポーランドのレジスタンスのメンバーだったビトルド・ピレツキーという人物は、わざと捕まってアウシュヴィッツ収容所に連行され、2年半を生き延びた後に脱走に成功しました。彼によって多くの情報が連合国に伝えられました。なお、ピレツキーは、第二次世界大戦の終戦後に誕生する共産主義のポーランド人民共和国において、反体制派として処刑されることになります。
敷地内には、有刺鉄線が張り巡らされていて、当時は高圧電流が流されていました。収容所での生活に絶望して有刺鉄線に身投げして自殺する人もいたとのことです。

有刺鉄線
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有刺鉄線
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続いてはガス室に向かいます。このガス室の前には絞首台があります。ドイツ敗戦後の1947年4月16日に、アウシュヴィッツ強制収容所の元所長ルドルフ・ヘスがこの絞首台で処刑されました。

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ガス室と焼却炉
← 絞首台
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ナチスは、列車で移送されてきた人々に対して、ガス室をシャワー室と説明しました。ナチスは、移送者の「選別」を行い、労働力にならないと判断した人々に、この建物でシャワーを浴びてから住居に移動するように伝えました。
移送されてきた人々は、自分が脱いだ衣服が後で分かるようにきちんと分類させられたので、シャワーを浴びた後に戻って来れると信じていました。
しかし、シャワーから噴出されたのは毒ガス「チクロンB」でした。毒ガスを浴びた人々は約20分で亡くなり、隣接する焼却炉で焼却されました。焼却炉は現在は2基が残っていますが、当時は3基あり、1日に350人の遺体が焼却されたそうです。

ガス室
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焼却炉
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1939年9月に第二次世界大戦が勃発した当初はドイツ軍が圧倒的に優勢でしたが、次第に劣勢に追い込まれていきます。1945年4月30日にヒトラーはベルリンの地下壕で自爆し、5月8日にドイツが連合軍に降伏します。
敗戦に先立つ1944年頃には、すでにドイツ軍の敗色が濃厚となっていて、ナチスはこの収容所から撤退する前に、大急ぎで戦争犯罪の痕跡を消し去ろうとしました。1945年1月17日〜23日にかけて、収容されていた6万人近い人々が強制的に別の収容所に連行され、これは「死の行進」と呼ばれました。
1945年1月26日までナチスによる証拠品の焼却や施設の爆破が続けられ、1月27日にソ連軍によってアウシュヴィッツ強制収容所が解放されます。
この収容所が解放されたとき、生存者は骨と皮だけになって動くことが出来なかった約7000人だけだったそうです。ナチスが多くの証拠を焼却したので、正確な数字は分かっていませんが、アウシュヴィッツ強制収容所と、この後に見学するビルケナウ強制収容所では、150万人以上の人々が殺害されたと言われています。
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