ポーランド旅行記


クラクフ散策


 本日の朝はゆっくりしたスケジュールです。ホテルで朝食を済ませたら、部屋に戻って荷物をまとめます。ホテルのチェックアウトを済ませたら、スーツケースをバスに詰め込んで、9時に出発です。
 
 バスで15分程移動して、やってきたのはクラクフ旧市街の外に位置するヤン・マテイコ広場です。広場の名前になっている「ヤン・マテイコ」は、19世紀に活躍したクラクフ生まれの画家(1838〜1893年)です。この広場には「グルンヴァルトの戦い」の記念碑が置かれています。
 
ヤン・マテイコ広場
ヤン・マテイコ広場
 
 「グルンヴァルトの戦い」は、1410年7月15日に、ポーランドと隣国リトアニアの連合軍がドイツのチュートン騎士団(ドイツ騎士団)に勝利した戦いです。リトアニアでは「ジャルギリスの戦い」と呼ばれ、ドイツでは「タンネンベルクの戦い」と呼ばれています。
 
 この記念碑は、戦いの勝利から500周年にあたる1910年7月15日に設置されました。除幕式には15万人が参加したそうです。この記念碑の設置を計画し、制作費用を全額負担したのは、世界的なピアニストのイグナッツィー・ヤン・パデレフスキー(1860〜1941年)でした。彼は第一次世界大戦後にポーランドの首相を務めました。
 
 この記念碑の最上段にいる騎馬像が、当時のポーランド王ヤギェウォ(リトアニア語ではヨガイラ、)です。彼はリトアニアの出身でしたが、男子の後継者がいなかったポーランドのヤドヴィガ王女と結婚して、ヴワディスワフ2世として即位しました。
 
 その下の中段に立っている人物は、当時リトアニアを統治していたヴィタウタス大公です。彼はヤギェウォの従弟にあたり、リトアニアの全盛期を築いた人物です(ヴィタウタス大公については、2017年のバルト三国旅行記バルト三国の歴史で紹介しているので、興味のある方はお立ち寄りください)。
 
 さらに、その下で横たわっている人物は、チュートン騎士団総長のウルリッヒ・フォン・ユンキンゲンです。
 
 この戦いは、ドイツにとっては屈辱でした。第二次世界大戦下の1939年9月にクラクフを占領したドイツ軍はこの記念碑を徹底的に破壊しました。戦後、再建計画が持ち上がり、1976年10月に再び公開されました。この記念碑の前には、戦争で犠牲になった人々を追悼する「無名戦士の墓」が置かれました。
 
グルンヴァルトの戦い記念碑
バルバカン
バルバカン
← グルンヴァルトの戦い記念碑
 
 この記念碑と通りを挟んだ向かい側にはバルバカンと呼ばれる建物があります。このバルバカンは、クラクフを防衛する目的で1498年に建造された円形の要塞です。
 
 かつて、クラクフ旧市街は城壁で守られていましたが、19世紀にほとんどが撤去されて、緑地となりました。その中に画家ヤン・マテイコの像が置かれています。額縁も置かれていて、奥の景色が絵画のように見えます。
 
ヤン・マテイコ像と額縁
マテイコ像と額縁
 マテイコは、ポーランドの歴史に関する作品を数多く描いています。
 
 リトアニアのトラカイ城には、複製画ですが「グルンヴァルトの戦い(ジャルギリスの戦い)」を描いた作品、バチカン市国にあるバチカン博物館のラファエロの間には「ポーランド王ソビエスキのウィーン解放」が飾られています。
 
 バルバカンの外観を眺めながら先に進むと、フロリアンスカ門が見えてきます。
 
 
 フロリアンスカ門は、1300年頃に建造されたもので、城壁に囲まれたクラクフ旧市街への入口の1つでした。この門からクラクフ旧市街に入ります。クラクフ旧市街は1978年に世界遺産に登録されています。
 
フロリアンスカ門
フロリアンスカ門からクラクフ旧市街へ
門を通ってクラクフ旧市街へ
← フロリアンスカ門
 
 フロリアンスカ門からは、中心部に向かってフロリアンスカ通りが走っています。この先に聖母マリア聖堂が見えます。フロリアンスカ門の前には、クラクフ旧市街の模型が置かれています。現地ガイドさんが、この模型を使って、これから移動するルートや見学するポイントを説明してくれました。
 
フロリアンスカ通り
クラクフ旧市街の模型
クラクフ旧市街の模型
← フロリアンスカ通り
 
 フロリアンスカ門の近くには、チャルトリスキ美術館があります。ここにはレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452〜1519年)が描いた「白貂を抱く貴婦人」が展示されています。
 
 後ほどフリータイムとなった時に見学しようと思いましたが、現地ガイドさんの話では「現在、美術館は大規模な改装工事のため2019年まで閉館されていて、「白貂を抱く貴婦人」は旧市街の外にあるクラクフ国立博物館で展示されている」とのことでした。
 
チャルトリスキ美術館
チャルトリスキ美術館
白貂を抱く貴婦人(ダ・ヴィンチ)→
白貂を抱く貴婦人(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
 
 入り組んだ路地を散策しながら、旧市街の中心に位置する中央市場広場にやってきました。この広場には、織物会館と旧市庁舎の塔が建っています。
 
中央市場広場
中央市場広場
 
 クラクフは交通の要衝に位置し、中世の頃から交易の拠点として繁栄していました。織物会館は、14世紀頃に多くの露店を屋根で覆って造られたルネサンス様式の建物で、衣服や布地などの織物取引所として利用されました。
 
 織物会館の近くに建つ塔は、かつてここに市庁舎が建っていた頃の名残です。この塔はバロック様式になっています。
 
聖母マリア聖堂
聖母マリア聖堂
 中央市場広場の一角には、1222年頃にゴシック様式で建設された聖母マリア聖堂があります。
 
 今回は、内部への入場は含まれていませんが、主祭壇は15世紀にファイト・シュトース(1447年頃〜1533年)という彫刻家の傑作とされていて、聖母マリアの被昇天の場面が彫られています。
 
 この聖堂の塔からは1時間ごとにラッパ手による「ヘイナウ」と呼ばれる時報のラッパが吹かれます。
 
 ちょうど10時になるところなので、多くの観光客が聖堂の周りに集まっているところです。
 
 間もなく、塔の窓が開いてラッパ手が出てきました。そして、ラッパが吹かれ始めましたが、途中で音が止んでしまいました。これは、アクシデントではなく理由があります。
 
 13世紀、モンゴル軍は西方に遠征し、ロシアを征服します。さらに西方に進んで東ヨーロッパに侵攻したモンゴル軍は1241年3月末頃に当時のポーランド王国の首都だったクラクフに到達しました。
 
 聖母マリア聖堂からラッパ手がモンゴル軍の来襲を知らせるラッパを吹き鳴らしましたが、モンゴル軍に矢で射られ、音が途中で止んでしまいました。以来、「ヘイナウ」と呼ばれるラッパの音は途中で止むようになっています。
 
聖母マリア聖堂に集まった観光客
聖母マリア聖堂前に集まった観光客
ラッパ手による時報
ラッパ手による時報
 
 その後、クラクフはモンゴル軍によって焼き払われ、多くの住民が殺害されたそうです。それから間もなくの4月9日、ポーランド軍はポーランド西部のレグニツァと呼ばれる地でモンゴル軍を迎え撃ちましたが、壊滅してしまいました。この戦いは、ワールシュタットの戦いと呼ばれています。