ポーランドの歴史


ピャスト王朝(〜1370)


 7世紀頃からポズナンとグニェズノ(ポズナンの東に約50キロの位置)の周辺にスラブ系のポラニエ族が定住しました。966年、このポラニエ族を束ねるミェシュコ1世がキリスト教を導入し、ポーランドが建国されました。このミェシュコ1世に始まる王朝はピャスト朝と呼ばれました。 
 
 1025年、ミェシュコ1世の息子ボレスワフ1世がポーランド王に即位して、ポーランド王国が創設されます。初期の首都はポズナンに置かれました。
 
11世紀頃のポーランド
11世紀頃のポーランド
ボレスワフ1世
ボレスワフ1世
 
 
 初期のポーランドは政治的に混乱し、国王に即位できたのはボレスワフ1世と息子ミェシュコ2世だけで、その後の後継者はポーランド公を名乗りました。
 
 1040年頃にはカジミェシュ1世が首都をポズナンからクラクフに遷都しますが、その後もポーランドの混乱は続きました。さらに、1138年にボレスワフ3世が遺言で国土を5人の息子に分割相続させたために、統一を巡って内乱となりました。
 
 こうした状況の中で、1241年に最大の危機が訪れます。1206年にモンゴル高原を統一したチンギス・ハンの後継者オゴタイ・ハンが軍隊を西方に派遣します。モンゴル軍は1240年にロシアを征服し、翌1241年にポーランドに攻め込んできました。
 
 モンゴル軍はポーランドを代表する河川のヴィスワ川を渡って、ポーランド各地を略奪してまわり、首都クラクフも破壊されてしまいます。1241年4月9日、周辺諸国の援軍を含めたポーランド軍は、ポーランド西部にあるレグニツァでモンゴル軍を迎え撃ちます(ワールシュタットの戦い)。しかし、勇猛なモンゴル軍の前に壊滅してしまいました。
 
 モンゴル軍は、4月11日のモヒの戦いでハンガリー軍も破り、さらに西方へ侵攻しますが、モンゴル本国からオゴタイ・ハン逝去の知らせが届きます。モンゴル軍は一斉に撤退したためヨーロッパは危機を脱しました。
 
 モンゴル軍と並んでポーランドの脅威になったのはドイツ騎士団です。13世紀初頭からドイツ騎士団はポーランドの北部に進出し、1231年にはトルンに要塞を建設しました。1237年にはバルト三国に進出していた帯剣騎士団を吸収してリヴォニア騎士団となり、さらに勢力を拡大します。
 
カジミェシュ3世(大王)
カジミェシュ3世(大王)
 ピャスト朝最後のポーランド王となったカジミェシュ3世は、外交能力や政治力に優れていました。
 
 ドイツの脅威は続いていましたが、彼の治世にポーランドの経済は発展し、1364年にクラクフ大学が創設されます。
 
 カジミェシュ3世は、「木造のポーランドをレンガのポーランドに変えた」と讃えられましたが、1370年に後継者を残さず逝去し、ピャスト朝は終焉しました。
 
7世紀頃 ポズナンの町並みポラニエ族がポズナンとグニェズク周辺に定住
(写真はポズナンの町並み
966年 ミェシュコ1世がポーランドにキリスト教を導入し、ピャスト王朝が始まる
1025年 ボレスワフ1世がポーランド王に即位してポーランド王国を創設
1138年 ボレスワフ3世死去、遺言でポーランドが5人の息子に分割相続される
1231年 トルンの町並みドイツ騎士団がトルンに城塞を建設
(写真はトルンの町並み
1237年 ドイツ騎士団(チュートン騎士団)が帯剣騎士団を吸収してリヴォニア騎士団を創設
1241年 4月9日、レグニツァの戦い(ワールシュタットの戦い)でポーランド軍がモンゴル軍に大敗
1333年 カジミェシュ3世(大王)が即位
1364年 カジミェシュ3世、クラクフ大学を創設
1370年 カジミェシュ3世、死去。ピャスト朝の終焉