ポーランドの歴史


ヤギェウォ王朝(1371〜1572)


 カジミェシュ3世の死後、ポーランドの王位は甥のラヨシュが継承しましたが、彼も男子の後継者がいなかったために娘のヤドヴィガがポーランド初の女王に即位します。
 
 1386年、ヤドヴィガ女王は隣国リトアニアのヨガイラと結婚します。ヨガイラ(ポーランド名ヤギェウォ)はヤドヴィガとともにポーランド王に即位し、ヴワディスワフ2世を名乗ります。ヤギェウォ朝の始まりです。
 
ヤドヴィガ
ヤドヴィガ
ヨガイラ(ヤギェウォ)
ヨガイラ(ヤギェウォ)
 
 
 1410年7月15日、ブワディスワフ2世が率いるポーランド軍と従弟にあたるヴィタウタス大公が率いるリトアニア軍の連合軍は、グルンヴァルトの戦い(リトアニアではジャルギリスの戦い)でドイツ騎士団に大勝利をおさめます。ポーランドは、ピャスト朝の時代から続いていたドイツ騎士団の脅威から解放されました。
 
グルンヴァルトの戦い(ヤン・マテイコ画)
グルンヴァルトの戦い(ヤン・マテイコ画)
 
 ポーランドは、1454〜1466年における13年戦争、1519〜1521年にかけての戦争でもドイツ騎士団を破ります。1525年4月10日、ドイツ騎士団はポーランドに降伏します。ポーランド王ジグムント1世は、騎士団長アルブレヒト・ホーエンツォレルンを初代プロイセン公に任命しました。
 
 ジグムント1世の治世は、領土を拡大する一方で学問や芸術が大いに発展しました。ヨーロッパ各地から学者、画家、彫刻家、建築家などが招かれ、ルネサンス文化が華開きました。トルン出身のミコワイ・コペルニク(ラテン名ニコラウス・コペルニクス)は1543年に出版した「天球の回転について」で地動説を発表しました。
 
16世紀頃のポーランド
16世紀のポーランド
ジグムント1世
ジグムント1世
 
 
 ジグムント1世の息子ジグムント2世の治世の1569年には、「ルブリンの合同」と呼ばれる条約が調印されてポーランドとリトアニアが合併します。ポーランドは81万5千平方キロメートルの国土と750万の人口を抱える東ヨーロッパ最大の国家へと成長しました。しかし、ジグムント2世には男子の後継者がいなかったため、ヤギェウォ朝は断絶しました。
 
1384年 ヤドヴィガがポーランド女王に即位
1386年 ヤドヴィガがリトアニア大公ヨガイラと結婚。ポーランド王ヴワディスワフ2世として即位してヤギェウォ朝が始まる
1410年 クラクフに立つ「グルンヴァルトの戦い」の記念碑「グルンヴァルトの戦い」で、ポーランドとリトアニアの連合軍がドイツ騎士団に勝利
(写真はクラクフに立つ「グルンヴァルトの戦い」の記念碑
1454年 ポーランドとドイツ騎士団の間で「13年戦争」が勃発(〜1566年)
1517年 ドイツでマルティン・ルターによる宗教改革が始まる
1525年 プロイセンの臣従(ヤン・マテイコ画)ドイツ騎士団がポーランドに臣従。ポーランド王ジグムント1世がアルブレヒト・ホーエンツォレルンを初代プロイセン公に任ずる
(写真はヤン・マテイコが描いた「プロイセンの臣従」)
1526年 「モハーチの戦い」で、ジギスムント1世の甥ラヨシュ2世が率いるハンガリー軍がトルコ軍に敗北
1543年 トルンに立つミコワイ・コペルニク像ミコワイ・コペルニクが「天球の回転について」を出版して地動説を発表
(写真はトルンに立つミコワイ・コペルニク像
1548年 ジグムント1世、死去。ジグムント2世がポーランド王に即位
1569年 「ルブリン合同」でポーランドとリトアニアが合併
1572年 ジグムント2世、死去。ヤギェウォ朝の終焉