クロアチア旅行記(スプリット)


ディオクレティアヌス宮殿


 今日は8時30分にホテルをチェックアウトします。スーツケースを積んだバスはスプリットという町に向かって出発します。車窓からはアドリア海や石灰岩の岩肌がむき出しになった山々が見えます。
 
車窓からの眺め
車窓からの眺め
車窓からの眺め
車窓からの眺め
 
 ホテルを出発してから約1時間でスプリットに到着です。スプリットはローマ帝国の時代に建設され、現在は20万以上の人口を抱えるクロアチア第二の都市です。
 
 バスをおりたところで現地ガイドさんが合流し、スプリット旧市街の観光に向かいます。このスプリットの旧市街は2000年にユネスコの世界遺産に登録されています。
 
ディオクレティアヌス宮殿跡
ディオクレティアヌス宮殿跡
南門(青銅の門)
南門(青銅の門)
 
 旧市街観光のメインは城壁で囲まれたディオクレティアヌス宮殿跡です。四角形をした宮殿跡は四方に門があります。私たちは南門から入場します。
 
 
 まずは宮殿の地下部分を見学します。地下はローマ帝国の時代は調理場や食料貯蔵庫として使われていました。現在は土産物屋が並び、一部は資料館にもなっています。その一角に創建当時のディオクレティアヌス宮殿が描かれたパネルを発見しました。
 
ローマ帝国時代のディオクレティアヌス宮殿
ローマ帝国時代のディオクレティアヌス宮殿
 私たちが先ほどくぐった南門はこの絵では海に面しています。
 
 当時、南門は青銅の門と呼ばれ、海からの入口でした。同様に、北門は金の門、東門は銀の門、西門は鉄の門と呼ばれていました。
 
 地下には、この宮殿を建設したディオクレティアヌス帝の胸像も置かれています。
 
 紀元前753年に建国された古代ローマ帝国は、地中海をぐるりと囲むようにヨーロッパ大陸、アジア大陸、アフリカ大陸にまたがる広大な領土を支配しました。しかし、徐々にローマ帝国は衰退していき、3世紀頃には異民族の侵入が相次ぐようになります。
 
 235〜284年は「三世紀の危機」と呼ばれ、この異民族との戦いで手柄を立てた軍人が皇帝に選ばれるようになり、50年間に18人の皇帝が入れ替わりました。この混乱に終止符を打ったのがディオクレティアヌス帝(在位284〜305年)でした。
 
ディオクレティアヌス帝の胸像
ディオクレティアヌス帝の胸像
 ディオクレティアヌス帝は、244年にダルマチア属州の州都だったサロナで解放奴隷の子として生まれました。
 
 元奴隷の子供ということで、幼少の頃からとても苦労したそうですが、軍人としての才能に恵まれ、ローマ軍団への入隊後は順調に出世を重ねていき、一兵卒からヌメリアヌス帝の親衛隊長にまで出世しました。
 
 そして、284年にヌメリアヌス帝が亡くなると、兵士たちによって皇帝に推挙されました。英邁なディオクレティアヌス帝は、広大なローマ帝国を1人の皇帝が統治することは難しいと判断して帝国を四分割します。
 
 この四分割時代のローマ帝国についても、資料館の壁に地図がかけられています。
 
テトラルキア体制のローマ帝国
テトラルキア体制のローマ帝国
 この四分割統治はテトラルキア体制と呼ばれ、2人の正帝(ディオクレティアヌスとマクシミアヌス)と2人の副帝(ガレリウスとコンスタンティウス)はローマ帝国に侵入した異民族を追い出すことに成功しました。
 
 305年、ローマ帝国の再建を見届けたディオクレティアヌス帝は皇帝の座を退いて隠居します。これはローマ帝国史上で前例のないことでした。全ての権力を放棄したディオクレティアヌス帝は故郷サロナの近郊にあった静かな漁村に宮殿を建てて余生を過ごしました。それが、いま私たちが訪れているスプリットです。
 
 隠居したディオクレティアヌス帝は、この宮殿で家庭菜園に精を出し、かつての同僚にキャベツの出来を自慢したというエピソードも残されています。