クロアチア旅行記(ザグレブ)
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聖母マリア大聖堂
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ドラツ広場のすぐ側にはザグレブのシンボルになっている聖母マリア大聖堂が建っています。

聖母マリア大聖堂
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1094年、当時クロアチアを統治していたハンガリー王ラースロー1世がザグレブに司教座を置き、この場所にロマネスク様式の教会を建てます。
1242年、教会はザグレブに攻め込んできたモンゴル軍によって破壊されてしまいます。
教会はゴシック様式で再建されましたが、先ほどの聖フラーニョ教会と同じく1880年の地震でダメージを受けてしまいます。
その後、ドイツ人建築家ヘルマン・ボレーの設計により、ネオゴシック様式で教会の修復工事が始まります。この時に105メートルある2本の尖塔も造られましたが、予算不足でザグレブ近郊から採掘した柔らかい砂岩を使用してしまったために損傷が激しく、1990年から石灰岩に置き換える工事が続けられています。

聖母マリア大聖堂前の広場
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大聖堂の周りに残っている城壁は16世紀にオスマン・トルコ帝国の軍勢がザグレブ近郊まで押し寄せてきた時に建設されました。
1299年に小アジアで興ったオスマン・トルコ帝国は急速に勢力を拡大して1453年にビザンティン帝国の都だったコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)を攻略します。その後もトルコは勢力を拡大し、1526年の「モハーチの戦い」でハンガリー軍を破り、ハンガリー王ラヨシュ2世は戦死してしまいます。
トルコ軍はハンガリーを始め、クロアチアの隣国であるセルビアやボスニアも征服します。ザグレブ近くを流れるサヴァ川まで押し寄せてきたトルコ軍の脅威に対抗するためにザグレブの町は城壁で囲まれ、シンボルである大聖堂も城壁で囲まれました。

大聖堂の城壁
大聖堂の入口 →
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続いては大聖堂に入場します。主祭壇には黄金の聖母子像が置かれています。その背後にはアロイジウス・ステナピッツ司教の墓が安置されています。

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聖母マリア像
← 聖母マリア大聖堂の内陣 |
ステナピッツは1937〜1960年にかけてザグレブ大司教を務めた人物です。資料によると、彼は第二次世界大戦後の1946年に逮捕されユーゴスラビアの法廷で証拠不十分のまま戦争犯罪人とされました。彼の罪状は、「大戦中にナチス・ドイツと同盟を結んでいたユーゴスラビアのファシズム集団であるウスタシャ政権に協力してセルビア正教徒たちをキリスト教に強制改宗させた」という罪だったそうです。
彼はウスタシャ政権に協力したことはなく無実であることを主張しましたが、16年の刑を宣告されてしまいます。5年の強制労働の後、減刑されて1951年からは故郷クラシッチで監禁生活を送り、1960年に亡くなりました。
1991年のクロアチア独立後、クロアチア政府はステナピッツの有罪判決を取り下げます。こうして、彼の名誉は回復され、彼が司教を務めたザグレブの大聖堂に葬られました。
大聖堂の見学を終えて、本日のザグレブ市内観光は終了です。現地ガイドさんと別れて私たちはバスに乗ってレストランに向かいます。
バスは10分程でレストランに到着です。席に着くとさっそく前菜が運ばれてきます。本日の前菜はトマトとチーズのカプレーゼです。前菜の次はメインのステーキが運ばれてきました。別に注文したビールと一緒に美味しくいただきます。
メインの後はデザートのティラミスをいただいてディナーは終了です。

メインのステーキ
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デザートのティラミス |
1時間のディナータイムを終えたらバスに乗ってホテルに戻ります。10分程でホテルに到着して、ただいまの時間は19時30分です。外を見るとまだ明るいし、中央駅の地下にあるスーパーはまだ営業しているとのことです。お土産を買うために散策がてら徒歩で中央駅に向かうことにします。
中央駅は先ほどトラムで観光した新市街にあります。ホテルを出てしばらく歩いていると立派な建物が見えてきました。1913年に建築家ルドルフ・ルビンスキーによって建設されたアールヌーヴォー様式のクロアチア国立古文書館です。
さらに数分歩くとトミスラヴ王の騎馬像が置かれているトミスラブ広場に到着です。この向かい側にザグレブ中央駅があります。駅前は多くの人で賑わっています。

クロアチア国立古文書館
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トミスラヴ広場 |
ザグレブ中央駅は、1892年にネオクラシック様式で建設されました。1919〜1977年にかけてイスタンブールとパリを結ぶオリエント急行の停車駅としても利用されました。

ザグレブ中央駅
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この駅の地下は商店街になっています。ここで見つけたスーパーで飲み物やお土産を買って、本日の観光は終了です。
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