スペイン王国


カルロス1世(1500〜1558)


 カトリック両王の死後、スペインの王位はハプスブルク家が継承します。
 

カルロス1世(スペイン、マドリードのプラド美術館)
カルロス1世
 1516年、精神に異常をきたしていたカトリック両王の次女フアナに代わって、ネーデルランドから彼女の長男カルロスがやってきます。
 
 16歳でスペイン王となったカルロス1世は、1519年に祖父マクシミリアン1世の跡を継いで神聖ローマ帝国の皇帝(カール5世)にも即位します。
 
 若干19歳でヨーロッパ最大の支配者になったカルロス1世は、祖父母たちから受け継いだ広大な領土を守るために生涯を戦いに明け暮れます。
 
 祖父マクシミリアン1世の代から続いていたイタリアを巡るフランスとの戦争は、パヴィアの戦いでフランス王フランソワ1世を捕虜にするという大勝利をおさめてイタリアへの野心を放棄させました。
 
 オスマン・トルコ帝国との攻防では、1529年にトルコの大軍がウィーンを包囲しますが、守備隊の善戦によって防衛に成功します。1535年にはカルロス1世自ら大軍を率いてオスマン帝国が支配するチュニスに遠征して、捕虜になっていた大勢のキリスト教徒を救出しました。
 
カルロス1世のチュニス遠征を描いたタペストリー(オーストリア、ウィーンの中世武器博物館)
カルロス1世のチュニス遠征
 
 晩年のカルロス1世はカトリック教徒を代表して、当時ヨーロッパに広まりつつあった宗教改革に立ち向かいます。しかし、カルロス1世は1547年にミュールベルクでプロテスタントの軍勢に勝利をおさめながらもキリスト教の分裂を防ぐことはできませんでした。力尽きたカルロス1世は、山村のユステに隠居し、歴史の表舞台から去っていきました。
 

1500年 カルロス1世、フランドルのガンで誕生
1503年 カルロス1世の弟フェルディナントがスペインで誕生
1506年 カルロス1世の父フィリップ美公(フェリペ1世)がブルゴスで死去
1515年 パリのルーブル美術館に飾られているフランソワ1世の肖像画ヴァロワ家のフランソワ1世がフランス王に即位
(写真はパリのルーヴル美術館に飾られているフランソワ1世の肖像画)
1516年 カルロス1世がスペイン王に即位(母フアナ女王との共同統治)
1517年 ドイツでマルティン・ルターによる宗教改革がはじまる
1519年 ウィーンの王宮宝物館に展示されている神聖ローマ皇帝の冠カルロス1世の祖父マクシミリアン1世が死去、カルロス1世が神聖ローマ皇帝に即位(カール5世)
(写真はウィーンの王宮宝物館に展示されている神聖ローマ皇帝の冠)
1520年 イスタンブールに建つスレイマニエ・ジャーミースレイマン1世、オスマン帝国のスルタン(皇帝)に即位
(写真はイスタンブールに建つスレイマニエ・ジャーミー
1521年 コルテス、アステカ王国(メキシコ)を征服し、スペイン領とする
1522年 カルロス1世の支援を得たマゼランが世界一周を達成
1525年 ハプスブルク家の軍勢がイタリア・パヴィアの戦いでフランス軍を破り、フランス王フランソワ1世を捕える
1526年 1月、フランスと「マドリード条約」を締結
3月、カルロス1世がポルトガル王女イサベルと結婚
カルロス1世の弟フェルディナントがハンガリーとボヘミアの王位を継承
1527年 カルロス1世とイサベル皇后の間にフェリペ2世が誕生
5月、ドイツの傭兵たちによるローマの劫略事件
1529年 ウィーンの町並みオスマン帝国による第一次ウィーン包囲
(写真はシュテファン大聖堂から見たウィーンの町並み
1531年 ドイツでプロテスタントが「反ハプスブルク」を旗印にシュマルカルデン同盟結成
1533年 ピサロ、インカ帝国(ペルー)を征服し、スペイン領とする
1535年 カルロス1世がチュニスに遠征し、オスマン軍を破る
1539年 イサベル皇后、死去
1547年 カルロス1世、ドイツのミュールベルクでシュマルカルデン同盟軍を破る
1552年 ザクセン公モーリッツ謀反(インスブルックの夜襲事件)
1555年 アウグスブルクの宗教和議でプロテスタントが認められる
カルロス1世の母フアナが死去
1556年 カルロス1世が退位しフェリペ2世がスペイン、ネーデルランド、ナポリを継承
1558年 カルロス1世、隠居先のユステで死去