スイス旅行記


モルジュ散策


 今日は観光の最終日です。6時30分に起床したら、ホテルで朝食を済ませて荷物をまとめます。ホテルをチェックアウトしてバスに乗り込んだら8時45分に出発です。
 
 ベルン郊外のホテルから約1時間かけて到着したのはモルジュという町です。モルジュはレマン湖畔に広がる静かな町です。バスをおりて少し歩くとヨットハーバーが見えてきます。ここで1時間のフリータイムをもらって各自で自由散策です。
 
モルジュのヨットハーバー
モルジュのヨットハーバー
モルジュのヨットハーバー
モルジュのヨットハーバー
 
 ヨットハーバーの近くにはモルジュ城が建っています。
 
モルジュ城
モルジュ城
 このモルジュ城は、初日に訪れたシヨン城と同じくサヴォイア家によって13世紀に建設されました。四角形の形をした城塞の四隅に丸い塔を備えています。
 
 モルジュ城の内部は軍事博物館になっています。開館時間は10時です。ただいまの時間が9時50分なので、城の周囲を散策しながら待つことにします。
 
 10時になると同時に係の人がドアを開錠してくれて、オープンです。入ってすぐの部屋は、歴史上の場面が再現されたミニチュアが並んでいます。これらの中からスイスの歴史に関係がある場面をいくつか紹介します。
 
 まずは、カエサルのガリア遠征です。イタリア半島でローマ帝国が勢力を拡大していた時代、レマン湖周辺にはヘルヴェティ族が暮らしていました。紀元前58年、カエサル率いるローマ軍はガリア(現在のフランス、スイス、ベルギーを含む地域)に攻め込み、ヘルヴェティ族を破ります。ローマ人は、ヘルヴェティ族が暮らしていた地域をヘルヴェティアと名づけました。現在のスイスの国名はスイス連邦ですが、ラテン語ではヘルヴェティア共和国と呼ばれています。
 
カエサルのガリア遠征
カエサルのガリア遠征
アレシアの攻防
アレシアの攻防
 
 8年に及ぶカエサルのガリア遠征のクライマックスは紀元前52年のアレシアの攻防戦です。ヘルヴェティ族を始め、ガリア各地の部族はウェルキンゲトリクスの元に集結します。その数は30万に及んだと伝えられています。これに対してカエサル率いるローマ軍は5万程度だったそうですが、カエサルの采配によって大勝利をおさめます。紀元前51年にガリアは平定され、ローマ帝国の領土に組み込まれました。
 
 ローマ帝国の滅亡後、フランク王国の支配を経て中世にはドイツを中心とする神聖ローマ帝国の領土に組み込まれます。1291年8月1日、ウリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンの3州が同盟を結び、ハプスブルク家と攻防を繰り広げながら徐々に独立へと向かいます。
 
ブルゴーニュ軍
ブルゴーニュ軍
 15世紀になると、ブルゴーニュ公国(現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルクとフランスのブルゴーニュ地方)がスイスに戦争を仕掛けてきます。
 
 スイスの同盟軍は、1476年3月の「グランソンの戦い」、同年6月の「モラ(ムルテン)の戦い」で勝利しました。
 
 1789年にフランス革命が勃発すると、スイスはフランスに併合され、ヘルヴェティア共和国となります。フランスの皇帝となったナポレオンはヨーロッパ全土を席巻しましたが、1812年のロシア遠征で敗北します。敗走するナポレオン軍がベレジナ川を渡河してフランス領へ帰還したとき、当初50万を超えると言われていた軍勢は2万人まで減っていました。このナポレオン軍には多くのスイス人も徴兵されていました。
 
ナポレオン軍
ナポレオン軍
ベレジナ川の渡河
ベレジナ川の渡河
 
 ミニチュアの部屋の先に進むと、中世の騎士が使っていた甲冑や武器がずらりと展示されています。
 
スイスの騎兵
スイス軍の武器と甲冑
スイス軍の武器と甲冑
← スイスの騎兵
 
 スイス軍の制服が展示されている部屋もあります。その一角にヴァチカン市国の衛兵の制服も展示されていました。現在、ヴァチカン市国はスイス人の衛兵が守っています。この制服は、ミケランジェロがデザインしたものと言われています。
 
スイス兵の制服
スイス軍の制服
ヴァチカン衛兵の制服 →
ヴァチカン衛兵の制服
 
 スイス人は傭兵としてヨーロッパ各地で活躍しました。18世紀のハプスブルク家のマリア・テレジア女帝の時代にウィーンの王宮を守護したのはスイス人衛兵でした。フランス革命最中の1792年に、パリのチュイルリー宮殿に押し寄せてきた群衆から国王ルイ16世とマリー・アントワネットを守るために戦ったのもスイス人衛兵でした。
 
 
 モルジュ城の見学を終えて、フリータイムは残り15分です。残った時間でモルジュの町を散策します。
 
 モルジュは、女優オードリー・ヘプバーン(1929〜1993年)にゆかりのある町です。町の中の色々なところで彼女のポスターを目にします。1929年にベルギーで生まれたオードリーは、幼少期を母親の故郷オランダで暮らしていました。ナチス・ドイツ軍がオランダを占領すると、10代の彼女はナチスに対するレジスタンス活動に参加しました。戦後、彼女はロンドンに移り住んで女優への道を歩み始めます。1953年、当時23歳のオードリーは映画「ローマの休日」でアン王女を演じてアカデミー主演女優賞を受賞します。1988年、58歳の彼女はユニセフ親善大使に任命され、精力的に活動しました。
 
 彼女は1965年にレマン湖畔のトロシュナという小さな村で家を購入しました。このトロシュナはモルジュの近くにある村で、彼女のお墓もトロシュナにあります。
 
オードリー・ヘップバーンのポスター
モルジュの市庁舎
モルジュの市庁舎
← オードリー・ヘップバーンのポスター
 
 オードリーは生涯に3度の結婚をしましたが、2度目の結婚式はモルジュの市庁舎で挙げています。メインストリートのグランリュー通りに並ぶお店には、トロシュナで暮らすオードリーがよく自転車に乗って食料品などの買い物に訪れたそうです。
 
グランリュー通り
グランリュー通り
バロック教会 →
バロック教会