トルコ旅行記(イスタンブール)
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軍事博物館
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オスマン帝国は、16世紀のスレイマン大帝の時代に全盛期をむかえます。彼の時代にオスマン帝国の領土は最大となり、国内の文化レベルも向上しました。彼はヨーロッパの人々から「壮麗者」と呼ばれました。スレイマニエ・モスクなどを手掛けた、オスマン史上もっとも偉大な建築家と言われた大シナン(ミマール・シナン)が活躍したのもこの時代です。
1520年に即位したスレイマン大帝は生涯に13回の遠征を行いました。この博物館にはその数々の遠征を描いた絵画が飾られています。
ベオグラードの戦い |
彼は即位翌年の1521年にはハンガリー王国が統治するベオグラードを攻略します。
ハンガリーは当時、強力な軍隊を持ち、ボヘミアやポーランドなども統治するヨーロッパの強国でした。1456年には征服者メフメット2世もベオグラードで敗れています。
1526年、スレイマン大帝は軍勢を率いてハンガリーに遠征します。ハンガリー王ラヨシュ2世はモハーチ平原でオスマン軍を迎え撃ちますが、大敗北を喫してしまい、自らも戦死してしまいます。ラヨシュ2世には後継者がいなかったため、姉アンナの夫であるハプスブルク家のフェルディナント1世がハンガリー王を継承します。
当時、ハプスブルク家は皇帝カール5世の時代で、ドイツ、オーストリア、ネーデルランド、イタリア、スペインなど広大な領土を支配していました。
1529年、スレイマン大帝はカール5世の弟フェルディナント1世が統治するオーストリアの首都ウィーンに遠征します。
モハーチの戦い |
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第一次ウィーン包囲 |
オスマン軍は激しく攻め立てますが、当時のウィーンは頑丈な城壁に守られ、篭城軍は激しく抵抗しました。やがて、厳しい冬が訪れたため、オスマン軍は退却しました。以後、ハプスブルク家はオスマン帝国にとって強大なライバルとなります。
1566年、71歳のスレイマン大帝は自ら軍勢を率いてハプスブルク家と戦うためにハンガリーに遠征します。しかし、戦いの最中に陣中で没しました。
スレイマン大帝の死後、オスマン帝国は徐々に衰退していきます。スレイマン大帝の跡を継いだセリム2世は、カール5世の跡を継いだスペイン王フェリペ2世が派遣したスペイン艦隊に1571年のレパントの海戦で敗北します。
1686年、オスマン帝国は威信をかけて20万を超える軍勢で再びウィーンを包囲します。
第二次ウィーン包囲 |
オスマン軍は大砲や地雷など、あらゆる兵器を駆使して2ヶ月にわたってウィーンを攻撃しますが、攻略することはできませんでした。
そして、ウィーンの救援にやってきたキリスト教連合軍の前に大敗北を喫してしまいます。
この戦いの後、ハプスブルク家は反撃に転じ、オスマン帝国はスレイマン大帝が攻略したハンガリーやベオグラードを失ってしまいます。
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