オスマン帝国


ケマル・アタテュルク(1881〜1938)


 1914年に第一次世界大戦がはじまると、オスマン帝国はロシアに奪われた領土を取り戻すためにドイツ・オーストリア側について参戦します。
 
ケマル・アタテュルク
ケマル・アタテュルク
 1915年、イギリス軍がガリポリ半島に侵攻してきますが、ムスタファ・ケマル(後のケマル・アタテュルク)の率いる部隊が奮戦して撃退に成功します。ムスタファ・ケマルは「救済者」として人々に讃えられました。
 
 1918年、オスマン帝国は連合軍に降伏します。イギリスやフランスなどの連合軍はトルコの分割支配を目論み、彼らの支持を受けたギリシャ軍がイズミールからトルコに侵攻してきます。
 
 スルタン・メフメット6世とイスタンブールの政府に不満を持つ人々は、ムスタファ・ケマルの元に集まり、アンカラで新政府を樹立して抵抗運動を開始します。そして、激しい攻防の末にギリシャ軍を追い払った新政府は、トルコ領内からの連合軍の撤退を認めさせることに成功します。
 
 1923年、新たに生まれ変わったトルコ共和国の初代大統領に就任したムスタファ・ケマルは、政治と宗教の切り離し、アラビア文字を廃止してローマ字を導入、イスラム暦を廃止して太陽暦を採用するなど、さまざまな改革を行いました。
 
 また、これまでのトルコには姓をもつ習慣がありませんでしたが、1934年に全国民が姓を持つことを決定します。このとき、ムスタファ・ケマル自身は、議会から「アタテュルク(トルコの父)」の姓を贈られました。
 

1912年 第一次バルカン戦争
1913年 第二次バルカン戦争
1914年 第一次世界大戦勃発。オスマン帝国はドイツ・オーストリア側について参戦
1915年 ゲリボル(ガリポリ)の町並みケマル・アタテュルク、ゲリボル(ガリポリ)半島の戦いでイギリス軍を撃退
(写真はガリポリの町並み)
1918年 メフメット6世、スルタンに即位
10月30日、オスマン帝国が連合軍に降伏
1919年 ギリシャ軍がイズミールに上陸
5月19日、ケマル・アタテュルクがサムスンに上陸
1920年 3月16日、連合軍がイスタンブールを占領
ケマル・アタテュルクの像が立つトルコの首都アンカラ4月23日、ケマル・アタテュルクがアンカラで大国民議会を開催して新政府の樹立を宣言
(写真はケマル・アタテュルクの像が立つトルコの首都アンカラ
8月10日、スルタン・メフメット6世のイスタンブール政府が、連合軍によるトルコの分割支配を認めるセーブル条約に調印
1921年 8月、ケマル・アタテュルクがサカリア川の戦いでギリシャ軍を破る
1922年 9月、ギリシャ軍がイズミールから撤退
11月、大国民議会でスルタンの廃位が決定。スルタン・メフメット6世は国外に追放される
1923年 7月24日、ローザンヌ会議で、セーブル条約の破棄と連合軍のトルコからの撤退が決定
10月3日、イスタンブールからアンカラへの遷都が決定
10月29日、トルコ共和国が成立し、ケマル・アタテュルクが大統領に就任
1924年 3月3日、カリフ制が廃止され、アブドゥル・メジト2世は国外に追放される
1934年 ケマル・アタテュルク、議会から「アタテュルク」の姓を贈られる
1938年 イスタンブールに建つドルマバフチェ宮殿11月10日、ケマル・アタテュルク、イスタンブールのドルマバフチェ宮殿で死去
(写真はイスタンブールに建つドルマバフチェ宮殿
1939年 第二次世界大戦勃発(〜1945年)
1952年 トルコ、NATOに加盟
1973年 ボスポラス海峡に架かるボスポラス大橋ボスポラス海峡にボスポラス大橋が開通
(写真はボスポラス海峡に架かるボスポラス大橋
1988年 ボスポラス海峡に架かるファーティフ・スルタン・メフメット大橋ボスポラス海峡にファーティフ・スルタン・メフメット大橋が開通
(写真はボスポラス海峡に架かるファーティフ・スルタン・メフメット大橋