イギリス旅行記(ロンドン)


ナショナル・ポートレート・ギャラリー


 別行動をとってやってきたのはナショナル・ギャラリーに隣接するナショナル・ポートレート・ギャラリーです。ここには16世紀以降のイギリス王室やイギリスに貢献した人たちの肖像画が展示されています。
 
 この美術館も無料で入場できますが、写真撮影は禁止されています。ここもショップで購入した絵ハガキを使って歴史上の有名人を紹介します。
 
イギリス国王ヘンリー8世
国王ヘンリー8世
 テューダー朝2代目の国王ヘンリー8世(在位1509〜1547年)は、イギリス史上で特に有名な国王です。
 
 彼は、なかなか男児を生まない王妃キャサリンとの離婚を望んでいましたが、当時のカトリックは離婚を認めていませんでした。
 
 ローマ教皇庁から離婚を拒否されたことをきっかけに、ヘンリー8世はカトリックと決別して英国国教会を設立します。そして、自らを英国国教会の頂点に位置づけ、イギリス中の教会や修道院を自身の管理下に置きました。
 
 ヘンリー8世は、生涯に6回の結婚を繰り返して1人の王子と2人の王女を得ました。その1人がイギリス史上で有名なエリザベス女王(在位1558〜1603年)です。
 
イギリス女王エリザベス1世
女王エリザベス1世
 彼女の治世の1588年、イギリス海軍は「アルマダの海戦」でライバル国スペインの大艦隊に奇跡的な勝利をおさめます。
 
 右の肖像画は「アルマダの海戦」から4年後の1592年に描かれました。女王がディッチリーに滞在しているときに描かれたことから「ディッチリーの肖像画」とも呼ばれています。
 
 女王はイギリスの地図の上に立ってイギリスに君臨していることを示しています。背景に描かれている雷鳴は女王の権威、雲間からさす日の光は女王の栄光を象徴しています。
 
 エリザベス1世は生涯独身を貫いたので子供はいませんでした。テューダー朝は5代で終焉し、ステュワート朝に引き継がれます。
 
オリバー・クロムウェル
オリバー・クロムウェル
 ステュワート朝の2代目国王、チャールズ1世(在位1625〜1649年)は王権神授説を唱えて独裁者として振るまい、イギリス議会と対立しました。
 
 1642〜1649年にかけてピューリタン革命がおこり、敗北した国王チャールズ1世は議会派のリーダー、オリバー・クロムウェル(1599〜1658年)によって処刑されました。
 
 国王の処刑後、イギリスは共和国となりクロムウェルが独裁者として振るまいましたが、彼の死後に王室が復活して現在に至っています。
 
 
 1714年にステュワート朝が断絶すると、ドイツから遠い親戚にあたるハノーヴァー選帝侯ゲオルク(イギリス王ジョージ1世)が招かれ、ハノーヴァー朝が始まります。
 
国王ジョージ4世
国王ジョージ4世
 1789年にフランス革命が勃発すると、イギリスはフランスから亡命してきた王族や貴族を受け入れ、対ナポレオン戦争(1803〜1815年)ではオーストリアやプロイセンと同盟を結んで戦います。
 
 ジョージ4世(在位1820〜1830年)は、皇太子だった1811年から精神的に不安定な父ジョージ3世に代わって対ナポレオン戦争の指揮をとりました。
 
 このナポレオン戦争では、海軍を指揮したネルソン提督、陸軍を指揮したウェリントン公爵という二人の人物が活躍しました。
 
 ネルソン提督(1758〜1805年)は、1805年10月21日の「トラファルガーの海戦」において、フランス・スペインの連合艦隊を壊滅させてナポレオンにイギリス上陸を断念させました。しかし、ネルソン提督自身は戦いの最中に狙撃され、旗艦ヴィクトリー号の上で戦死しました。
 
 ウェリントン公爵は、1815年6月18日の「ワーテルローの戦い」において、陸戦で無敵を誇ったナポレオン軍を破りました。敗軍の将となったナポレオンは絶海の孤島セント・ヘレナ島に流され、そこで生涯を終えました。
 
ネルソン提督
ネルソン提督
ウェリントン公爵
ウェリントン公爵
 
 1837年に始まったヴィクトリア女王(在位1837〜1901年)の治世は、イギリスが空前の繁栄を謳歌した黄金時代でした。
 
ヴィクトリア女王
ヴィクトリア女王
 イギリスは他国に先駆けて1760年代に産業革命を成し遂げ、19世紀には「世界の工場」として富を独占しました。
 
 1851年に開催されたロンドン万博では、メイン会場となった全面ガラス張りの水晶宮(クリスタル・パレス)が話題となり、5ヶ月間で600万人が訪れました(当時のロンドンの人口は200万人)。
 
 彼女の治世に、イギリスはカナダ、インド、エジプト、オーストラリア、南アフリカなど多くの植民地を獲得して「大英帝国」と呼ばれました。