イギリスの歴史


名誉革命(1660〜1714)


 イギリス議会によってフランスに亡命していたジェームズ1世の息子が呼び戻されて、チャールズ2世として即位します。
 
 チャールズ2世は愛人との間には多くの子供をもうけましたが、王妃との間には後継者となる嫡男がいませんでした。そのため、チャールズ2世の死後は弟のジェームズ2世が跡を継ぎます。
 
チャールズ2世(イギリス、ロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリー)
チャールズ2世
ジェームズ2世(イギリス、ロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリー)
ジェームズ2世
 
 
 イングランドはプロテスタントを国教としていましたが、チャールズ2世とジェームズ2世の兄弟はカトリックを信仰していました。兄のチャールズ2世はカトリック教徒であることを秘密にしていましたが、弟のジェームズ2世はカトリック教徒であることを公言し、同じくカトリック教徒であるイタリアのモデナ公国の公女と結婚しました。
 
 ジェームズ2世はカトリック教徒を優遇する政策をとりはじめたため、これを危惧したイギリス議会は密かに同じプロテスタントの国であるネーデルラントの総督ウィレム3世と彼の妻でジェームズ2世の娘にあたるメアリーに使いを送ります。
 
ウィリアム3世(オランダ、デルフトの新教会)
ウィリアム3世
メアリー2世(イギリス、ロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリー)
メアリー2世
 
 
 1688年11月、ウィレム3世は軍勢を率いてブリテン島に上陸します。ジェームズ2世の統治に不満を持っていたイギリス軍は戦わずにウィレム3世に降伏したため、ジェームズ2世の一家はフランスに亡命します。翌1689年1月28日、ウィレム3世とメアリーは、それぞれウィリアム3世、メアリー2世として共同統治の形態で王位につきました。
 
 この交代劇は、内戦で多くのイギリス国民の血が流れたピューリタン革命と異なって一滴の血を流すこともなく達成されたため、「名誉革命」と呼ばれました。
 
1662年 チャールズ2世、ポルトガル王室のキャサリン・オブ・ブラガンザと結婚。これにより、ポルトガルの植民地だった北アフリカのタンジールとインドのボンベイがイギリス領になる
1665年 第二次英蘭戦争はじまる
1666年 イギリス、ロンドンに建つロンドン大火記念塔ロンドン大火
(写真はロンドンに建つロンドン大火記念塔
1667年 ブレダの和約を締結して第二次英蘭戦争が終結。イギリスはオランダの植民地だったニューアムステルダムを獲得してニューヨークと改名する
1672年 第三次英蘭戦争(〜1674年)
フランスのヴェルサイユ宮殿に飾られているルイ14世の肖像画イギリスと同盟したルイ14世の率いるフランス軍がオランダに侵攻し、オランダ戦争がはじまる(〜1678年)
(写真はフランスのヴェルサイユ宮殿に飾られているルイ14世の肖像画
1673年 ジェームズ2世、モデナ公国のメアリー公女と結婚
1677年 ジェームズ2世の娘メアリーとオランダ総督ウィレム3世が結婚
1685年 チャールズ2世、死去。ジェームズ2世がイングランド王に即位
1688年 イギリスで名誉革命が勃発
1689年 1月、オラニエ公ウィレム3世と妻メアリーがイギリスの国王に即位(ウィリアム3世とメアリー2世)して、オランダとイギリスの同君連合が成立
1694年 メアリー2世、死去(ウィリアム3世の単独統治)
1701年 1月、オーストリアとフランスの間でスペイン継承戦争がはじまる(〜1714年)
オランダのデン・ハーグに建つビネンホフ9月、オランダ、イギリス、オーストリアがハーグ同盟を締結
(写真はオランダのデン・ハーグに建つビネンホフ
1702年 ウィリアム3世が死去してオランダとイギリスの同君連合が解消。メアリー2世の妹アンがイングランド女王に即位
1707年 イングランドとスコットランドの合同法が成立してグレートブリテン連合王国(イギリス)が誕生
1708年 「ブレンハイム(ブレナム)の戦い」でマールバラ公爵(ジョン・チャーチル)率いるイギリスとオーストリアの連合軍がフランスとバイエルンの連合軍に勝利
1714年 アン女王、死去