オーストリア旅行記(ウィーン)


歴史博物館(2階)


 2階は16世紀から18世紀にかけての展示室になっています。ここでは2度に渡るオスマン・トルコ帝国との戦いの様子を知ることができます。
 
 1453年、オスマン・トルコはコンスタンティノープルを占領してビザンティン帝国(東ローマ帝国)を滅ぼしました。オスマン・トルコはその後も領土を拡張し、1526年にはオーストリアの隣国ハンガリーに攻め込みます。
 
城壁に囲まれた中世のウィーン
城壁に囲まれた中世のウィーン
 ハンガリー軍はトルコ軍を迎え撃ちましたが、モハーチの戦いで敗れ、国王ラヨシュ2世も戦死しました。
 
 彼には嗣子がなかったため、姉アンナの夫、ハプスブルク家のフェルディナント1世がハンガリー王を継承します。
 
 1529年、10万を超えるオスマン・トルコ軍がウィーンに攻め込んできます。頑丈な城壁に守られたウィーンに立て篭もったオーストリア軍は善戦し、やがて冬が訪れるとトルコ軍は撤退しました。
 
トルコ軍による第一次ウィーン包囲
トルコ軍による第一次ウィーン包囲
 
 1683年、トルコ軍は再びウィーンに攻め込んできます。スルタン(皇帝)・メフメット4世の命を受けたカラ・ムスタファ宰相が率いる20万のトルコ軍に対してウィーンを守るのはわずか4千人の軍勢でした。
 
オスマン・トルコ帝国のスルタン、メフメット4世 トルコ軍の鉄砲
トルコ軍の鉄砲
←スルタン、メフメット4世
 
 
 オーストリアの将兵は前回同様ウィーンに立て篭もって奮戦します。しかし、トルコ軍は大砲や鉄砲など、前回よりはるかに進歩した攻城兵器を使っていました。
 
トルコ軍による第二次ウィーン包囲
第二次ウィーン包囲
 2ヶ月余りに渡る攻防戦の末、ウィーンはいよいよ陥落寸前まで追いつめられます。
 
 このとき、ポーランド王ヤン・ソビエスキが率いる数万のキリスト教連合軍が救援にやってきます。トルコ軍は敗走し、ウィーンは再び救われました。