ハンガリー王国


フランツ・ヨーゼフ(1830〜1916)と
エリザベート皇后(1837〜1898)


 1526年にフェルディナント1世がハンガリー王を名乗って以来、独立を求めるハンガリーの人々とハプスブルク家はたびたび対立しました。1848年にウィーンで三月革命が勃発すると、ハンガリーにも波及して革命政府がハプスブルク家のハンガリー王廃位を宣言します。
 
 これに対して、1848年12月にオーストリア皇帝に即位した若干18歳のフランツ・ヨーゼフはロシアの援軍を得て、革命政府を粉砕します。これを恨んだハンガリー人によって1853年には皇帝の暗殺未遂事件がおこります。
 

フランツ・ヨーゼフ
フランツ・ヨーゼフ
エリザベート皇后
エリザベート皇后
 
 
 こうした厳しい状況の中でフランツ・ヨーゼフは民族の協調を訴え、広大な帝国の統治に努めます。一方で、エリザベート皇后はハンガリーを愛し、ハンガリーの人々からも慕われていました。
 
 1867年、ハプスブルク家とハンガリーの妥協の末に、オーストリア=ハンガリー二重帝国が誕生します。ブダペストにも独自の政府が認められ、ハンガリーの人々は狂喜しました。
 
 しかし、1918年の第一次世界大戦における敗北で、二重帝国は崩壊、ハプスブルク家はオーストリアを去り、ハンガリーは国土の3分の2と、5分の3の国民を失いました。
 
1806年 フランツ2世が神聖ローマ帝国の終焉を宣言したウィーンのアム・ホーフ教会ドイツ諸侯、フランスとライン同盟を結成し、神聖ローマ帝国解体。以後、ハプスブルク家が統治する領土はオーストリア帝国と呼ばれる
(写真は神聖ローマ皇帝フランツ2世が神聖ローマ帝国の終焉を宣言したウィーンのアム・ホーフ教会
1814年 「会議は踊る、されど進まず」のウィーン会議の様子ウィーン会議開催(〜1815年)
(写真はウィーンの歴史博物館に飾られている「会議は踊る、されど進まず」のウィーン会議の絵画)
1848年 ウィーンの王宮庭園に立つフランツ・ヨーゼフの像ウィーンで3月革命勃発、フェルディナント1世が退位し、甥のフランツ・ヨーゼフがオーストリア帝国の皇帝に即位
(写真はウィーンの王宮庭園に立つフランツ・ヨーゼフの像)
1849年 フランツ・ヨーゼフ、ロシアの支援を得てハンガリー独立運動を鎮圧。指導者のコッシュート・ラヨシュはトルコに亡命
1854年 ウィーンのフォルクス庭園にあるエリザベート皇后の像フランツ・ヨーゼフ、バイエルンのエリザベートと結婚
(写真はウィーンのフォルクス庭園にあるエリザベート皇后の像)
1867年 オーストリア=ハンガリー二重帝国成立を機に建設されたブダペストの国会議事堂オーストリア=ハンガリーニ重帝国成立
(写真はオーストリア=ハンガリー二重帝国成立を機に建設されたブダペストの国会議事堂
1914年 二重帝国、セルビアに宣戦布告し、第一次世界大戦勃発
1916年 オーストリア帝国最後の皇帝となったカール1世の胸像フランツ・ヨーゼフ、死去。カール大公がカール1世としてオーストリア=ハンガリー二重帝国の皇帝に即位
(写真はウィーンのカプチナー教会にあるオーストリア帝国最後の皇帝カール1世の胸像)
1918年 二重帝国、第一次世界大戦に敗北。ハンガリーは国土の3分の2を失う
1939年 第二次世界大戦勃発(〜1945年)
1956年 ハンガリー動乱
1989年 ハンガリー共和国誕生